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仏に参らせ、芸の花

仏に参らせ、芸の花
仏に参らせ、芸の花
仏に参らせ、芸の花
「最晩年を迎えた師匠を、その原点、出発点に戻してやりたいんですよ」
昨年12月のある日のこと。私は、大人気の女流浪曲師:玉川奈々福さんに突拍子もない御相談を持ち掛けた。師父佐々井秀嶺の来日予定もまったく白紙状態で、いわんや高齢の師ゆえ如何なる不測の事態が起きるかも知れぬまま、売れっ子芸人さんにスケジュールを都合してもらうことがどれほど無茶な申し出であるかは、重々承知の上だった。
  ことの始まりは、遡ること三年前の2014年初夏、佐々井師はインドで危篤状態に陥った。原因は不明。だが、十方諸仏の御加護と最先端医療の甲斐もあり、奇跡的に生還。退院した直後に見舞った私は、そのやつれ果てた姿に言葉を失った。そのとき師父はこう言った。
「マール・ギヤー、ワーパス・アーヤー」
ヒンディー語で、殺されたが戻って来たぞ、の意。こんな状態でも《韻を踏んだ啖呵》を切る師父を見て「ああ、このひとは根っからの舞台人、浪曲師なんだな」と感じた。そしてその頃から、いつかもう一度浪花節の舞台に立たせてやりたい、と秘かに思うようになった。
  佐々井秀嶺師(本名:佐々井実)は昭和30年代、大正大学で仏教を学ぶ傍ら、東屋楽水あるいは大菩薩連嶺の芸名で浪曲師としても活動していた。みずから「仏法浪曲第一世」と称し、『佛道と藝道』の合一をまさに実践していた。その後、修行のためインドへ渡り、爾来かの国で虐げられた最下層民衆と同じ地面に腰を据え、共に泣き、共に笑い、満身創痍になりながら、今日まで生きて来た。
しかしその佐々井師も今や高齢、ましてや危篤をくぐり抜けた体。出来ることなら、もう一度出発点に戻してやりたい…。
とはいえ私自身は、仏門に入るまで洋楽畑にいた人間で、浪曲の世界にはまったく縁がない。あくまで夢の話と胸にしまい、なかば忘れかけていた。ところが昨年六月末、たまたま知人の文筆家が玉川奈々福さんと親しいと聞き、にわかに気持ちが昂った。これこそ仏教で云う「無縁大悲」と、えにしを結んでいただいてから一気に事は急展開、奈々福さんより御招待をいただき、浅草木馬亭へと佐々井師をお連れして、約60年ぶりの浪曲舞台を堪能してもらった。
客席に身をあずけ、涙を浮かべながら奈々福さんの芸に見入る師父の横顔に、私は、無謀にも二人のコラボレーション企画を思い描くようになった。あえて云うまでもないが、佐々井秀嶺師はインド仏教復興運動の指導者、民衆のカリスマである。かたや玉川奈々福さんは今や日本の各方面からもっとも注目されている人気者。この両者を同じ日に同じ舞台に上げる、などとは、よほど夢想癖の持ち主でなければ考えつかないだろう。しかし私の強み(?)は、その夢想家だったこと。…こうして、冒頭の言葉に繋がるのである。

  奈々福さんは、ただ黙って頷いてくださった。
そして遂に、平成29年7月1日土曜、東京新宿は角筈区民ホールに於いて『佛道と藝道』は実現した。あの舞台は《浪曲師:玉川奈々福》の気っ風と人情あったればこその奇跡であった。
また、佐々井師もたびたび奈々福さんのお声を誉めていたが、まさしくそれは観音経偈が説くところの「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音」であったろう。

当日、開会の挨拶において、私は参加者の皆様へこのように申し上げた。
「佛道も藝道も、これ一番大事なとこなんです、仏教も芸能もですよ、相手あってのものなんです。独り善がりじゃなんにもならない。相手あってのもの、人と人とをつなぐものが、佛道と藝道でございます」

【写真上・中・下】打ち合わせ中の佐々井師と奈々福さんと私
(田島利枝さん撮影)

佛道と藝道

佛道と藝道
佛道と藝道
7月1日(土)、インドと日本を結ぶ義理人情浪花節の心、史上空前のコラボが遂に実現!
於:角筈区民ホール3階 (新宿区西新宿4丁目)
18;30開場  19;00開演
※参加受付・お問い合わせは以下のサイトにて。尚、お席に限りがございますので申し込みは何とぞお早めに!

https://tiget.net/events/11544

佐々井秀嶺。
今から五十年以上前、浪曲を愛したひとりの青年僧が日本を飛び出した。その人の名は、佐々井秀嶺(1935年生まれ)…。みずからを「世紀の苦悩児」と呼ぶ彼の生きざまは、まさに破天荒。恋に苦しみ人生に悩み、自殺未遂三回、放浪の果てに転がり込んだ寺に拾われ、やがて僧侶の道を志す。1965年、師匠山本秀順の薦めでタイへ留学、二年間の修行を経て仏教の故国インドへ渡り、かの国でヒンドゥー教による差別に苦しむ民衆、いわゆる「不可触民」と出会う。1987年インド国籍取得。2009年に帰国するまでただの一度も日本の土を踏まず、インド最下層民衆の解放と仏教改宗運動に身を捧げて、現在に至る。そんな彼を今も支えているのは、日本庶民の心・浪花節。自身も青年時代に東屋流浪曲を学んだ佐々井は、2016年来日の際、東京浅草の木馬亭にて「浪曲界のシンデレラ」こと玉川奈々福と邂逅。

玉川奈々福。
浪曲師・曲師(浪曲三味線奏者)
1994(平成6)年10月、日本浪曲協会主宰三味線教室に参加。1995(平成7)年7月7日玉川福太郎に入門。師の勧めにより2001(平成13)年より浪曲師としても活動。2004(平成16)年「玉川福太郎の徹底天保水滸伝」全5回、2005(平成17)年「玉川福太郎の浪曲英雄列伝」全5回プロデュース。2006(平成18)年本橋成一監督作品『ナミイと唄えば』出演。同年12月、芸名を美穂子から奈々福に改め名披露目。さまざまな浪曲イベントをプロデュースする他、自作の新作浪曲も手掛け、他ジャンルの芸能・音楽との交流も多岐にわたって行う。今年は日本伝統の話芸を様々な角度から掘り下げる『語り芸パースペクティブ』という事業を開催中。
blog → http://tamamiho55.seesaa.net/s/
Twitter → @nanafuku55

今回、この両者による奇跡のコラボレーションが遂に実現!会の前半は玉川奈々福の浪花節をじっくり(曲師:沢村豊子)、そして後半は佐々井秀嶺との浪曲談義『佛道と藝道』。さてさて、どんな話が飛び出すか、乞う御期待!
現代インドと平成日本、千里の波涛を越えて響き合う浪花節のこころ。かたい話は抜きにして、楽しい集いにしたいと考えています。この機会を是非ともお見逃しなく!
《敬称略》

仏心涌出

仏心涌出
仏心涌出
仏心涌出
先日、在日インド仏教徒の家で法要を勤めた。
日本暮らしも二十年近いその夫婦は、かつて私がまだパーリ語のお勤めも心許なかった頃から、あれこれと面倒をみてくれた篤信者だ。旦那は子供時代、若き日の佐々井秀嶺師が法華の団扇太鼓を叩いて行脚している後ろを、面白がってくっついて歩いたインド下町の悪戯っ子。奥さんは佐々井師からその信心深さを認められ、ルンビニー(藍毘尼園)という法名を授かった「観音様」のような女性だ。
今回、その奥さんから電話で依頼を受けた時も、ところで誰の法事なんだね?と訊くと、
「プージャ(法事)はいつだってバグワーン・ブッダ(世尊仏陀)のためですよ」
と注意された。

さて、家に着いてみると『B.A.I.A.E.Japan』(アンベードカル博士国際教育協会日本支部)の面々が大勢集まっていた。あえて云うまでもないが、佐々井師に出会うまではヒンドゥー教社会で徹底的に差別されたいわゆる元「不可触民」の仏教徒たち。おいおい、一体どうしたっていうんだい?
「決まってるじゃないですか。バンテー・ジー(お坊さん。この場合は私のこと)がインドの新聞に載ったセレブレーションですよ」
驚いた。昨年十月、大手『LOKMAT』紙のマラーティ語版に私へのインタビューが写真入りで掲載されたことの祝いだ、という。記事には、日本にも現代インド仏教徒が50世帯以上住んでいること、徐々にではあるがアンベードカル博士に対する認知度も上がって来ていることなどが書かれていた。ちなみに、祝いが半年後になった理由は、昨年末に全世界で報道されたインドの高額紙幣切り替え騒動。
「ササイ・ジー(佐々井師)を日本へ連れてきてくれたり、私達のことをインドで紹介してくれたり、本当にありがたく思ってるんですよ」
うっかり涙が出そうになった。この人たちは、やはり「地涌の菩薩」(法華経)だったのだ。
そして私は、ここに到るまでの縁(えにし)に思いを馳せ、胸が詰まった。

私の母方には明治末期、解放運動に取り組んだ小寺の住職がいたそうだ。境内墓地にあった「新平民」の墓を他と隔てる垣根を撤去して檀家衆と対立、折悪しく失火により本堂が全焼。しかし再建費の喜捨には垣根の再築を条件とする総代と相容れず、そのため彼は妻子を残して勧進のため托鉢の旅に出た。
生来の直情漢だった彼は托鉢先でも勧進の趣旨を熱心に説いたが、なにぶん「穢僧 (被差別階級と関わる僧侶)」といった言葉がまだ活きていた時代のこと、大概どこでも門前払いを受けたそうだ。そして結果を出せぬまま何十年か経ち、あるとき子供が東京で暮らしていると聞いた彼は、ただ会いたい一心から捜し出して訪ねたが、子にしてみれば自分と母を残して出奔し、寺と家族を破壊した身勝手な父親。積年の怨嗟と共に追い払われた。
やがて年老いた彼は、ある時、小さな田舎町の安宿で大好物の「蕎麦がき」をかきながら、意識を失った。発見された時は蕎麦がきの丼に顔を突っ込んだ状態であり、直接の死因は窒息死のようだった。…以上は、全て亡母から聞かされた話で、客観性は無いに等しい。
だが、子供の私が恐る恐る想像した「安宿の破れ障子から射し込む仄明かりを背に、丼に顔を突っ込んで動かなくなっているお坊さん」の絵姿は、今も克明に焼き付いている。
それが、私の仏教の原点であると云えようか。

ジャイ・ビーム!

【写真上】在日インド仏教徒家庭の仏壇
【中】新聞『LOKMAT』の記事
【下】日本で暮らすインド仏教徒と私。

写真が語る『少林寺』

写真が語る『少林寺』
先日、東京銀座のヴァニラ画廊にて、大串祥子さんの写真展『少林寺』を鑑賞した。
未だかんばせに幼さの残る少林寺の武僧たちは、不殺生戒を守って肉食を絶ち、主たる蛋白源は豆腐など植物性のみという食生活の中で、身心を極限まで鍛え上げ、仏祖に祈りを捧げる日々を送っているという。
大串さん「少林寺に演武はありますが試合がないんですよ。だから優劣・勝敗といった、ライバル心みたいなのが感じられないんです」
「武僧の〈片手拝み〉は禅の『慧可斷臂』に由来するそうです」

http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html
どれも私が知らなかったことばかりだった。
さて、大串さんの写真展で私がまず一番最初に感じたのは、修行する若者たちの〈明るさ〉だった。いわゆる、戒律を守った厳格な暮らし、といった言葉からイメージされるような日本的…体育会系?…な悲壮感は、まったく窺えなかった。みんな好きだからやってる、そんな顔に見えた。云うまでもなく、まだ親に甘えていたい年端の頃から寺に籠っているのだから、それぞれの心の内には様々な葛藤、煩悶があるはずだ。
なのになぜこんなに明るく見えるのか?
おそらくそれは、彼らの思惟に「身体性」が伴っているからではないだろうか。あらゆるスポーツに共通していることだが、トレーニング中はみずからの呼吸に意識を集中し、筋肉の端々まで念を届かせなければ、大怪我をする。これこそまさにサンスクリット語でいう「ディヤーナ (attentionの意。音写した仏教語が禅那、略して禅)」であろう。
さらに、あえて平たく言うならば、彼らは「したいこと・しなければならないこと・できること」、この三つが矛盾なく自然に整った状態に心身を置いている、とも云えようか。それが少林寺の武僧たちの〈明るさ〉の理由だ、と私は思った。
翻って、現代社会を見るならば、往々にして、言葉だけが先走ることを知性と勘違いしている傾向が強いように思える。つまり、思考における身体性(フィジカル)の欠如。これを伝統的な仏教思想では「愛論戯論」「世智弁聰」と戒めている。
また、私が伺った当日、他の鑑賞者から出た言葉に、
「(少林寺の武僧は) むかしの日本の僧兵みたいなものとは違うんですか?」
というのがあった。無論、両者の歴史的成り立ちや社会に及ぼした影響は、まったく異なる。日本の僧兵は、仏教僧でありながら神社の御神輿を担ぎ出して街中を暴れ回り、お布施しなければ天罰が当たるぞ!と恐喝して人々を苦しめたチンピラだった。

最後に、大串さんの写真集『少林寺』沙弥108~109ページ見開き「三壇大戒、千佛殿にて読経する沙弥たち」で殿内に掲示された〈禮佛懺悔〉の文を現代風に訳して紹介したい。

    自分は、始まりもない遥かな昔から、今の人生に至るまでずっと、真実と真実に到る道とその道を歩む人々の邪魔をし、みずから変化の可能性を放棄し、万人救済の教えを誹謗し、智恵を絶ち、父母を悲しませ、聖者を傷つけるような振る舞いを繰り返し、おおやけの場を乱し、他人の道徳的行為を妨害し、聖域の破壊に加担し、公共財を私物化し、様々な間違った考えを起こし、物事の道理を無視し、悪い仲間に近付き、良い先生に背いて来ました。しかもそれを自発的におこない、また他人もそうするようにそそのかし、そのことを楽しんで来ました。だからずっと悟りを開けずに、輪廻転生を繰り返してきたのです。
これら今日までの罪は計り知れませんが、いま慚愧の思いですべてを告白します。どうか、真実と真実に到る道とその道を歩む人々よ、お慈悲の光でこの身を照らしてください。そして、どうか、自分本来の心を取り戻させてください!

◎《大串祥子さんのHP》
www.shokoogushi.com
◎写真集『少林寺』 発行:Libro Arte(リブロアルテ)  発売:メディアパル
本体3600円+税   ISBN978-4-8021-3045-5
必見必携!

浪花節菩薩道

浪曲菩薩道
浪曲菩薩道
浪曲菩薩道
「衆生 笑むがゆえに 我 笑む」
師父佐々井秀嶺とは、そういう男である。
云うまでもなく上記の言葉は『維摩経』の「衆生病むがゆえに我病む」を私が勝手に捩ったものだが、抜苦与楽、自利利他円満が大乗仏教ならば、結局同じことであろう。
インド最下層民衆と佐々井師のあいだで半世紀以上繰り返されてきたのは、まさにこの、泣き笑いを共にする菩薩道だった。太古の昔から続くカースト差別の無間地獄を、現世の極楽浄土に作り変えてしまおう、という途方もない「闘い」の道。それは、仏国荘厳(ぶっこくしょうごん)の大白道にほかならなかった。
そのササイ・ジーの原点となっているのは、浪花節。名も無き庶民の、心の襞に寄り添う大衆芸能の精神。いま目の前にいる人の心を抱き止められずして衆生済度など出来ようはずもない、という仏道の根本精神を、佐々井実(みのる)青年は、昭和三十年代の東京浅草で、浪花節の芸道を通じて学んだのである。
さて、今年初夏の来日時、女流浪曲師:玉川奈々福師匠から御招待を頂き、およそ六十年ぶりに佐々井師を浪曲の舞台へお連れすることができた。浅草木馬亭の客席に小柄な体を沈め、息を詰めて奈々福師匠の芸に見入るその横顔。目元には銀の光。…泣いていた。
その後、出番を終えた奈々福師匠が衣装のまま木馬亭の入口までお出くださり、丁寧な御挨拶を頂いた。
「感激したよお、涙と鼻水が出ちゃった」
と佐々井師。

そして十月、私はインド・ナグプールで開催される『第60回アンベードカル博士改宗記念祭』参加のため渡印する際、奈々福師匠から佐々井師への贈り物を預かった。「浪聖」と謳われた桃中軒雲右衛門 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 の貴重な音源。
佐々井師は記念行事前の多忙を極める中、夜毎それに聞き入っていたらしく、そうとは知らぬ私が或る朝、
「奈々福さんが焼いてくれた雲右衛門のCD、いつか時間のある時にでも聞いてください。せっかく預かって来たんだから」
と言うと、
「もう聞いてるんだよ!大事なものなんだ!」
…なぜか怒られた。

私の帰国が近付いた頃、「貰いっぱなしじゃ申し訳ないから」と佐々井師から奈々福師匠への返礼として、インドの仏像を託された。大きなものではないが、金属製でズシリと重い。
「よろしく言っといてくれ。それと、お渡しする前におまえがちゃんとパーリ語で開眼供養のお勤めをするんだぞ」
それは、あたかも青年のように清々しく端正な顔立ちの、釈迦牟仁であった。

【写真上】佐々井から託された仏像。
【中】ナグプールのササイ・ジー。
【下】日本式本堂でインド式に開眼供養を勤めた私と、人気の女流浪曲師:玉川奈々福師匠。

YouTube『奈々福の浪花節更紗』 https://youtu.be/5ccDvvHHOqc

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