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平和ちぇんちぇい

今回は新学期の開始に際して、トンデモ先生の迷言を集めてみました。
いわゆるひとつの『男女平等推進』シリーズです。

<私はいま六年生を担任してますが、体育授業の球技は男女混合で指導
しています。女子が得点すると男子なら一点のところを二点にしてあげる。
ソフト・ボールをやった経験のない女子に打順がまわった場合には、投手の
生徒に投げさせず、打席の前に道具を置きその上にのせた球を打たせる。
バスケをやる時は女子にも必ずパスを回すよう指導する。女子は走るのが
遅いから、ゴールの下で待たせ、シュートをするときには男子が女子に譲る
ことを教えています>
・・・え?平等ってそーゆーことっすか?

<教師が生徒の男子を「くん」女子を「ちゃん」と意識的に呼び分けるのは、
国連の条約に違反します。私は、校長の名前を「さん付け」では呼びますが
決して校長くんや校長ちゃんとは言いません。ですから、女子も男子も同じ
「さん付け」で統一することが、相手の立場を尊重する教育だと思ってます。
そういう日常の地道な積み重ねが、戦争したがる政治家に市民がNO!と
言える平和で健全な社会を作っていくのだ、と思います>
上司タメグチと世界平和が、どこでどうつながるのか、理解不能です。

あるお母さんより現場告発。
<授業参観のとき子供たちが教室の後ろのロッカーに乗って遊んでるのを
先生が注意しなかった。うちの子も混ざろうとしたのでスカートを穿いてたし
ロッカーは1mぐらいあって高くて危ないので、
「ダメよ、○○美!すぐに降りなさい、女の子がはしたない!」
と叱ったら、先生から、
「女の子だから、というのはいけません」
そう注意されてしまいました。ちょっとカチン☆ときたので、
「けど高くて危険でしょう」
と言ったら、その担任の先生ってば、
「そうです。高さが問題なのであって性別ではありません」
だってさ。なによそれ?>
もしかして担任先生、オリンピックで金メダルを狙える子に育てたかったの
ではないでしょうか。んなわきゃねーやな。

閑話休題。昨晩、夢を見た。
北京五輪女子レスリングで浜口京子選手が優勝。表彰式にオヤジが乱入。
アニマル浜口は『気合いだー!』の代わりに、『チベット!百連呼』。
公安が制止に入り大乱闘。慌てて放送を中止しようとした中国側スタッフを
助っ人のラッシャー木村とマイティー井上、阿修羅原が押さえ込む。
「わっはっは、わっはっは☆」
全世界同時生中継であの “笑いビクス” が響き渡る。これぞ、平和の祭典。

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コメント

ちぇんちぇいが、子どもを男女共通で「さん」づけで呼ぶのを、最近はどこでもやってるようだ。きもちわりい。
でも、子どもは先生にタメ口なんだよねー。なんじゃこりゃ。
子どもに「不遜の精神」を植え付けるのがきょうびの教育のようだ。それが世界平和につながるってえ理屈はかなり難解。
さすがちぇんちぇいの頭は我々とは「次元」が違うね。
少年の凶悪な殺人事件が連続して起こってるこのご時世を、なんとも思わないのかね。

ちなみに、最近、塾の講師が「フォロー」の電話かけてくるんだけど、何十人も教え子がいるってのに、一軒一軒。ご苦労さまです。その丁寧な対応と、的確な言葉遣い、手を抜かない仕事ぶり、まったく感心します。競争が激しい業界だから、ぼやっとしてたら仕事を奪われるんでしょうね。
どーせ、学校のちぇんちぇいは「わたちたちは授業以外にもたくさん仕事があるんでちゅ!」「教育は商売とは違うんでちゅ!」とか言うんだろ。でも、プロとしてもっとも重点が置かれるべき「授業」そのものだって、かなーり怪しいぞ。
余計な事を考えている暇があったら、塾の講師を上回る授業をしろ!競争原理に置いていかれる「負い目」を屁理屈でごまかすな!

『さん付け統一論』(なんか霊感商法で悪名高き新興宗教団体みたいですが)と、北京。じつは決して無縁ではないんですね。互いを「同志」或いは「コムレイド」と呼び合うように統一したのは、毛沢東とスターリンですから。
「やあ、毛コムレイド。例の小僧、ダライ・ラマとか言ったな、奴を首尾よく始末できたのかね?」
「じつはスターリン同志、あの小僧め、インドへ逃げやがったんだよ」
「ほほお。どうやら毛コムレイド、この勝負、君の負けのようだな。歴史の軍配はダライに挙がるよ。なぜなら君は、あいつを殺し損なった。勝利者の条件は、生き延びて語り続けることだからね」

週刊新潮に載ってましたが某中学校の卒業式で「国歌斉唱」とアナウンスがあったら、6年生の担任教師全員と、生徒1人を除く全員が着席して歌わなかったと。教頭いわく「君が代は思想的に問題があるが法律で決まっているので掛けた」と。教頭がですよ!?世界で一番、平和的な歌詞の国家である君が代を…。しかも法律で決まっているのに…。どちらが「思想的に問題があるのか」一目瞭然だと思いますが、どうでしょう?
昨今、会社でも「女子社員を○○ちゃんと呼ぶのはセクハラ」と言われたりして、ホントにいや~な世の中です。

今に女モノの五月人形やらオトコノコをターゲットにした雛人形なんてのが出て来そうですね。文化だからという理由だけで男女に用途を別けていては差別につながりますから(涙)。

区別と差別の違い、あるいはケジメと強要の違いもわからない連中が平気で教鞭を執る(って言い方も「軍国的でヨクナイ」んだそうで)日本国の未来に幸あれ。


広島じゃ高校の修学旅行で韓国を訪れ、見当違いな謝罪文を読まされた挙句に生徒全員が土下座させられるそうですが、これをファシズムと言わずして何と言おう。

イマドキの若造が言うのもなんですが、
イマドキの人ってみんな「差別」と「差蔑」の区別ができないんじゃないかと思います。
(でももしかして差蔑って造語?)

個人的には「差」なんてそれこそ星の数よりあるんだから
「別」にして考えるのは全くおかしくないと思うんだけどなぁ。
事あるごとに「平等」だの何だの言ってる人ってその辺のこと考えたことあるんでしょうか。

問題なのは「別」を「蔑」に取るからだと思うんですけど。

ksさん、はじめまして。

おっしゃるとおりですね。
広義での差別がなくなったら世の中機能しなくなるでしょう。それを、いわゆる「差別問題」などの差別と同じ感覚で受け止めてしまうから、何やらトンチキな教育がまかり通ってしまうのだと思います。

差別という言葉は、「性別や出身による差別をやめよう」の差別の部分が一人歩きしたものだと思っています。たびたびセットで使われる、「部落」と同じ境遇をたどった言葉とでも言えましょうか。単位を表す言葉がいつしか電波に乗せる事を自粛させる言葉に…。

余談ですが、私の父親はメクラです。僕にとっては父親というモノは目が見えないのが当たり前な存在(逆に、友達の父親がテキパキ動き回る様子に違和感を覚えたものです)でして、それゆえ周りが「目がご不自由なんですね」などといかにも気の毒そうに言うのを見ると、何か不自然なものを感じます。
そこにこそ、「差蔑」の正体が潜んでいる気がします。
そして、「階段であぶないから」と父の手を引くことは、広義での差別だと思います。

センセエがたの理論で行けば、「盲人だからと手を貸すのは差別だ!」となるはずですが、差別していなければ親父殿とっくに交通事故死でござい。

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