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2009年3月

みのり

みのり
先週末、某寺において、在日インド仏教徒有志と共に
亡き『文士(ふみノもののふ)』氏の追悼法要を営んだ。
花冷えの一日、急遽駆け付けてくれた彼らは、人生を
仏教復興に賭ける“釈迦の国から来た友”である。
「本当はもっと集めたかったんですけど・・・」
と、すまなそうに目を伏せた彼らは、みな母国社会で
ヒンドゥー教徒からいわれのない差別と抑圧を受け、
苦闘の日々の中、佐々井秀嶺師との出会いによって
文字どおり“生き返った”人々だ。
「日本では仲の良いことを、同じ釜の飯を喰う、と言い
ますね。インドでそれはカーストの意味になります」
高位階級のヒンドゥー教徒は、彼らが飲む水どころか
使用したコップにすら触れようとしない。
日本人で『インド事情通』と称される御仁の多くはまず
こういう現実を知らない。或いは、知ってても知らない
フリを決め込んでいる。亡き氏だけが、日本に初めて
かかる“釈迦の国の真実”を伝えてくれたのである。
近頃、メディアで持て囃されてる学者、N島T志などは、
「氏のせいでインドの印象が悪くなった」
などと口汚く罵っているが、人間性を疑わざるえない。

「仏教は、仏陀という神を信じる宗教じゃなくて、何が
本当のことか?を自分と社会に問い続ける道ですね。
なぜならブッダは、サンスクリット語で、“叡智”の意味
ですから」
法要終了後、在日インド仏教徒の青年が云った。

氏が蒔いた『黄金の種』は、豊かな実りを結んでいる。

イヤな言葉

このところワシの神経を逆撫でするような言葉が
やたらと世間に飛び交ってるため、ココロの耳を
塞ぐ作業に日々、手を焼かされて困る。
『説明責任』
ヤだね。とにかく生理的に駄目。ほとんどギャル
状態の感覚で理屈抜きに受け付けられない。
こいつを口にする時の人間は、てめえだけ清廉
潔白なつもりになり、ええ私はすべて包み隠さず
皆様に詳細且つ具体的説明を申し上げることに
ついて抜本的にやぶさかでないしかるに貴方は
なんですかちゃんと責任果たしなさい、みたいな
根拠不明の自己愛に酔い痴れてる気がする。
まず、てめえを弱者天使に設定する発想自体が
卑しいと思うのだよワシは。だからこれは、
『国策捜査』
とワンセットの言葉なんだな。公共に対して責任
果たせ、というのと国家権力の陰謀で無理矢理
罪に落とされた、というのは、じつは同一次元。
説明派は「人民こそ正義の基準」的な革命思想、
国策派も「お上は悪代官」だから、どちらも同じ。
うー。とにかくワシは嫌いです生理的に。

『雇用不安』
それを報じるメディア企業に携わる人間たちから
不安感が伝わってこないのは、どうかと思う。
他人様をネタに騒いで収入を得ることがどれほど
みっともねえか、分かってるとは思えないね。
特に、業界内メディアはヒドイ。 “こんなもん誰が
読むのよ?”って記事を、広告収入を得る目的で

活字にする。裏付けや後追い取材など一切無し。
本来、取材対象たるべき業界内団体の広報課が
持ち込んだ記事(=広告)を、まんま載せる。
つい最近ワシは、注害日報という業界紙において
抹殺されてしまった。某所でおこなわれた会合で
ゲスト講演したにも関わらず、存在自体が完全に
消された。しかも当日、記者は来ていなかった。
そんな仕事でメシが喰える奴が、雇用不安などと
弱者の味方ヅラしてんじゃねえよゴルアっ!
因みにワシは現地までの往復交通費及び講演料
など、ビタ一文受け取らなかったぜ(中指)。

以上はあくまでも『ギャル脳』坊主の生理的な反応
ですので、各位あしからず。

文士、往く

まずは馬鹿げた話から。しかし事実である。
某寺院へ、その所属する宗派のお偉いさんが来る
ことになった。事前に本山からファックスで送られて
きた“接待マニュアル”を見て、一同唖然。
「室内でのお履物は、御法主様は赤もしくは紫色に
金襴のスリッパ。御同行の方々は緑に金襴のこと。
召し上がられるお飲み物は、緑茶ではなく、紅茶の
アールグレイ(注:熱過ぎずぬる目のこと)」
しかも呆れたことに、スリッパと紅茶の注文のみで、
仏事に関する指示や指導は一切無し。
哀しいかな、これが日本仏教界の偽らざる素顔だ。

そんなセレブ坊主が束になっても太刀打ち出来ない
歴史的偉業を成した文士が、大往生を遂げた。
インド仏教復興運動に密着し、健筆を振るって日本
国内にその現状を伝え、また佐々井秀嶺の存在を
世に知らしめた、無冠の“文士”。まさに字の如く、
『ふみノもののふ』
であった。氏のペンは「文殊菩薩の利剣」だった。
いまはまだ、御遺族が公表に関し思案しておられる
状況なので実名は伏せるが、ワシは氏の最晩年に
たった一度だけ、その謦咳に接する縁に恵まれた。
すべてはブッダの導きであったと感謝している。

訃報を聞いた夜、ワシは取り乱した。
佐々井師の胸中を思うといたたまれなかった。
もし氏と出会わなければ、佐々井秀嶺は日本人の
誰にも知られず、インドの不可触民部落の片隅で、
とっくの昔に野垂れ死んでいたことだろう。
そしてインド仏教復興という人類史に輝く大偉業は
今日の成果を見ることなく頓挫していたはずだ。
すなわち氏の功績は、玄奘三蔵に匹敵するほどの
価値なのである。その氏が、一人静かに往った。

氏が心血を注ぎ完全邦訳した仏教復興の聖典は、
いかに日本の仏教界から無視され、或いは叩かれ
ようとも、必ずや歴史が正当な評価を下す。

氏よ、どうか仏教徒の未来を見守ってください。
南無阿弥陀仏。合掌。

空(くう)

“春のお彼岸”ということでたまには仏教ネタをば。
少し前、ケータイ小説が流行して映画化もされた時、
最初そのタイトルを「れんくう」と読み間違えました。
てなわけで今回は、空の話。
聞けば、近ごろは『般若心経』がブームなんだとか。
「色即是空(物質的現象に実体はない)」
まさかケータイ小説風に、あれを恋愛成就の呪文と
勘違いしてる人はいないでしょうけど。

空とは「0(ゼロ)」のことです。
数学でいう正数と負数の中間点、ではありません。
それよりむしろ「∞」に近い概念です。
ご承知のとおり、ゼロを発見したのはインド人。
言葉で説明すると言語的思考フィルターが掛かって
しまうので、肉体感覚で表現すれば、
夏の死ぬほど
暑い日に昼寝してるうち気絶に近い状態になり、
(でえ~・・・なんかもうどうでもいいや)
とまぁ、これがナチュラルな「空」のタッチです。
なにせインドですから、ありとあらゆる発想の基盤に
暑さが深く関わってるわけですね。

空は、梵語でもヒンディー語でも「シューニャ」。
ワシが生まれて初めてインドへ行った時、ホテルの
テレビを見ていたら、たまたまテレホン・ショッピング
みたいな番組をやっていて、司会者が、
「今すぐお電話を!×××のシューニャ×××!」
と、濃いめのキャラで絶叫する場面を見て、
「さすがお釈迦さまの国!テレホン・ショッピングでも
空の教えを説いている!ありがたや~」

とかマジで感激した恥ずかしい思い出がありますが、
電話番号の「0」も般若心経の「空」も、同じ単語。
インド人にとっては、それぐらいありふれた日常的な
言葉なんですね、空ってのは。

さて色即是空の「色」は、梵語「ルーパ」。
ヒンディー語では語尾のA母音が消えて「ループ」。
物質的現象、などと小難しく解釈されますが、形状を
あらわす日常語です。使い方としては、
「ループ・キ・ラーニー!」 (よっ、いい女♪)

つまり、現代日本の般若心経ブームは、ガイジンが
変な日本語Tシャツ着てる、みたいなもんですね。

dankaiパンチ

飛鳥新社発行の総合誌『dankaiパンチ』2009年4月号に、
佐々井秀嶺師による“人生相談コーナー”が掲載された。
この企画は初期の段階で間接的に関わっていたこともあり、
すぐさま書店へ急行、手に取ってみた。
桜満開の城下を写した美麗な表紙の右下に小さく、
    
インドより愛を込めて「喝!」
      佐々井秀嶺師の異色人生相談

とある。ううむ。命知らず、というべきだな飛鳥新社。
佐々井師の濃厚激越なる“情念”と“愛”を至近距離で知る
者として、この見出しについて率直な感想を述べれば、
「あんなモン“込め”られたら平成日本人は気絶しちまうぞ。
そのうえ“喝!”とは、自爆する気か?出版社」
生命の混沌から噴き出す佐々井パワーは、高名な大作家
(『他力』とかを書いたヒト)でもギブ・アップさせる超絶的な
破壊力を持つ。何かをぶっ壊さなきゃ終わらない。
しかもなんと、新連載、とあるではないか。キケンが危ない。
ワシは祈るような気持ちでページをめくった。

102頁。わが畏友:山本宗補氏の写真で始まる。
一点を見すえる佐々井秀嶺師。口をヘの字に曲げ、鋼鉄の
意志と紅蓮に燃える情熱をたたえた、刃の如き眼光。
何某が書いた佐々井師の紹介文には若干の誤りがあった。
たいしたことではないので敢えてツッコミは入れないでおくが、
お知りになりたい向きは、以下の二著、
     
『破天』山際素男(光文社新書)
    『男一代菩薩道』小林三旅(アスペクト)

を参照し、間違い探しするのも一興か。 上記二冊は佐々井
秀嶺師みずからが太鼓判を押した必読の書である。

さて、心配した内容は・・・。杞憂であった。
リストラから自殺を思い悩む読者と、中年を迎えても性欲に
煩悶する読者。ふたつの相談に佐々井師が答えている。
噛んで含めるように分かりやすく、また、温厚丁寧な口調で
やさしく語りかけている。あー、ホッとした。とはいえ、
(こりゃ相当“編集”されまくってるなあ)
と思った。実際の佐々井師は、四十年以上正しい日本語を
使っていないため、かなりメチャクチャに話す。
手書きの文字は前衛書道家が裸足で逃げ出すほどである。
ま、ともあれ記事は、ぶっ壊されずにすんでいた。

と思いきや、『編集後記』を読んで、唖然とした。
「この4月号をもって、休刊のやむなきにいたりました」
ぎょえッ!やっぱ何かを壊してんじゃん!
新連載で休刊とは、いくらなんでもドラマチック過ぎるぞ!

月刊PLAYBOYといい今回のパンチ誌といい、つくづく休刊と
縁のある人物だなー、佐々井秀嶺師は。合掌。

子供と権利

東南アジアの貧困地帯で、よく手足の欠けた子と
出会う。腕なら肘から先、足なら膝ぐらいから無く
なっている場合が多い。
周知の如く、あれは親によって切断されたものだ。
物乞いで生計を立てるうえで、目に見える障害が
あったほうが“哀れみを受け易いから”である。
残虐、と非難するのは誰でも出来る。だが彼らの
暮らす社会の暗黒を真正面から見据える覚悟が
無いなら、それは「お姫様の気まぐれ」に等しい。
なにもしないよりはるかにマシだが、虐待者と同じ
高さに居てものを言うのは、恥ずかしいことだ。

インドのヒンドゥー教寺院の門前で、日がな一日、
寝そべっている男の子を見た。
全裸で、痩せこけ、無数のハエにたかられながら
微笑んでいた。彼の股間には生殖器が無かった。
鋭利な刃物で根本から切り取られたことが判る。
その子は、そういう「見せ物」であった。
寺へ詣でる善男善女に弱者救済の功徳を積ませ
てやることを、彼とその親はなりわいにしていた。
ヒンドゥー教は差別によって成り立つ宗教のため、
はっきり分かる「惨めな存在」が必要なのだ。
そうして差別者、虐待者はみずからを納得をさせ、
また自身も差別されることを受け入れてしまう。

UNが定める『児童の権利条約』は、彼らのように
人間の尊厳を踏みにじられた子供のためにある。
まちがっても、親が買った家でエアコン付き個室を
与えられ、ハイテク仕様の勉強机で鼻クソほじくる

先進国のガキなんざ想定していない。
いわんや、わが国の教育行政が云うような、
「豊かに育ち、自分らしく個性を伸ばし、一個人と
して尊重され、自由に意見を主張できる」
そんな野放図を正当化するものでは、断じてない。

『RIGHT』を“権利”と訳したのは不適切だ、と思う。
利にさとい、と言えば「強欲者」の意味になる。

・・・あ、いいのか。実際そうだから。

阿修羅登場!

すでにお気付きの方もいらっしゃると思いますが、
拙ブログに阿修羅が住み着きました。
画面左中段、コメント欄の下で回転しております。
『しゅらしゅら阿修羅』 (注:PC版のみ)
彼の上でマウスをクリックすると、どついたことに
なり、たま~に反応してなんか言います。
ドラックで倒せますが、七転び八起きの根性者。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

阿修羅。梵語:Asuraの音写。
闘争を好む魔族で、六道輪廻では阿修羅道の主。
もとはペルシャのゾロアスター教(拝火教)の善神
アフラマヅダと云われ、それがインドに取り入れら
れて、“異国の異教の神”ということで、「アフラ」が
アスラに転訛し、悪役へ落とされたらしい。
ちなみに拝火教では暗黒神をアーリーマンといい、
これはインドの「アーリア人」を悪役にしたようだ。
また思想史的には、光の神:アフラマヅダを“善”、
対する暗黒神を“悪”とする二極構造は、そのあと
歴史に登場した仏教、キリスト教、イスラム教にも
多大な影響を与えている。
無量光仏(アミダ如来)はアフラマヅダをルーツに
持つ。すなわち、阿修羅と阿弥陀は同一の起源を
有することになる。まさしく親鸞が云った、
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」

阿修羅は、
仏教では天竜八部衆の者とされるが、
退治すべき“悪魔の眷属”とは見做されず、むしろ
哀れむべき存在、とみる。仏の慈悲によって仏法
守護神の立場へ昇格している。
「阿修羅等、聞仏所説、歓喜信受」(『阿弥陀経』)

南都興福寺の阿修羅像は、少年の顔をしている。
わけ知り顔で狡猾にふるまうオトナ、ではない。
闘争を好む、とは、偽善を許さず妥協しない意味も
あるのではないか。

かくありたい、とワシも思う。

怪談への階段

進級進学の季節が近付いて来た。欧米を真似てクラス解放
とやらで教室から廊下側の壁を取り払ったところで、それは
カイホーどころか、ホーカイを加速するだけだ。
仕切りが無くなれば節度も消滅する。つまり“放牧”になる。
「ここから先は聖域」
それを感じる能力こそ文化であり、知性である。
悪ガキは聖域を乱すことで知恵を磨き、才能を開花させる。
聖域(=畏敬空間)の消滅は人間を無能化する。

カタい話になった。やらか~くしよう。
時期外れと知りつつも、『学校の怪談』から現代教育事情を
考察してみたい。 親許から一時的に引き離され、閉鎖的な
異空間に放り込まれた子供の「脅え」が、それを生み出す。
かつて、大家族時代には、便所が怪談の舞台だった。
心理学者の講釈にると、孤独と密室恐怖と急所をさらすこと
への本能的な畏れがその根底にあるらしい。
さて、一世を風靡したスターに「トイレの花子さん」がいるが、
赤いコート(ちゃんちゃんこver.もアリ)を選ばせる幽霊さんも
出現場所は“学校の便所”。まさに、恐怖増幅の図式だ。
しかし彼ら幽霊諸氏と古典が伝える怪談の決定的に異なる
点は、お化け側と遭遇者の間に、怨恨関係が無いことだ。

皿洗いが下手でバイト代を差っ引かれた怨みで井戸の中へ
ゲロを吐いた(番長サラ・コナーズ)とか、惚れた男に疎まれ
薬とだまされて使った覚醒剤で久々にマスコミに登場した元
グラビア・アイドル(四谷猥談)とかの、「因果話」が無い。

本来、怪談は恐怖で倫理を諭すテキストであり、嘘ついちゃ
駄目とか弱い者イジメは駄目とか、そういう隠喩的な側面を
持っていた。だが、近代化という『神殺し』の時代の流れは、

幽霊からメンタルな社会的機能まで奪い取ったのである。

お化けが暮らせないクラスに、ゆとりはない。
聖域を廃棄した雑多な空間は魂を枯渇させるだけ。
怪談は、人を精神の深みに気付かせる地下室への階段だ。

ちなみにこのコラム、寺の納骨堂の片隅で書いてます。
あれッ?・・・いまの音、なに?

『老いの風景』

先週、埼玉浦和で開かれた写真家山本宗補氏の
個展を見学に行った。
『-老いの風景:Part2-』
と題される写真展は、築百年を経た旧家の納屋を
改造した和風喫茶を会場に、氏のテーマのひとつ
である“高齢者の日常から人間の営みを活写する”
数々の作品群が展示された。モノクロの写真でしか
表現不可能な老い(=人生)の光と陰は、見る者を
して、無言のうちに我とわが身を省みる心持ちへと
導いていく。ブッダの教えは、まさしくそこにある。
「生老病死(しょうろうびょうし)」
人間に四季があることを知らねば春の歓喜も夏の
情熱も秋の優しさも冬の厳しさも、見えてこない。

山本氏がカメラにおさめた老人たちの姿は、決して
秋冬の景色だけではない。春の笑顔と夏の活力を
備え、それらが絶妙に溶け合って、静謐なる調和を
成している。人生とは、かくも芸術的なのだ。
漁師の老爺が船上で合掌し、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と称える一葉は凡百の仏教書を凌いで余りある。
親鸞はよく、阿弥陀如来を海に譬えた。

“老いの風景から見えてきた戦争の記憶”
山本氏自身によるスライド・トークは圧巻であった。
東京大空襲をはじめとする本土爆撃の最高責任者
カーティス・ルメイに、戦後日本は叙勲している。
その彼こそが航空自衛隊設立の立役者であるにも
関わらず、昨年、元空幕長の某は、

「日本は被害者」
などと、武人にあるまじきグチを云った。
かつて冷戦時代、東側を後ろ楯にした左翼陣営は
戦前戦中の日本を極端に貶めるべく、荒唐無稽な
作り話をまことしやかに垂れ流した。
いわばそれと同次元の愚を、某はやらかしたのだ。

写真展の最後、モデルになった戦争経験者が自ら
補足説明をしてくれた。その言葉が胸に染みた。
「今、こうして生きていられるのも、靖国神社にいる
戦友が守ってくれてるからだと思います」

おろしゃ武道

試し斬り居合道の師範が云った。
「ロシアの武道家が僕に“会いたい”とかで道場へ来る
らしいんですよ。一体なんの用なのかなあ」
この一言が、ワシの野次馬スイッチをON!にした。
なんたって露西亜である。日露戦争以来、冷戦構造の
崩壊までわが国と敵対関係にあった旧ソ連、 そのうえ
かつては無神論を「是」とした社会共産主義の盟主。
アホなワシの頭では、武道と一番遠く離れたツンドラの
彼方に思える。
果たしてどんな赤鬼が現れるのか。

当日やって来たのは、意外に小柄なおっさんだった。
ヒグマを素手で瞬殺するような大男を想像してたワシは
正直、拍子抜けした。しかも結構、愛想が良い。
同行してきた通訳の露西亜美人に煩悩はハラショー☆
(お嬢さん。愛の弾丸を込めた銃で
ロシアン・ルーレット
しませんか?いやん、バカん。イワンの馬鹿♪)

コサック・ダンスを舞い踊る怪僧ラスプーチンを無視して
師範の質問が鋭く斬り込む。
「貴方は武道に何を求めているのですか」
「BUDOは私の人生だ」
通訳の日本語力と古武道に対する基礎的知識の浅さが
災いし、当初は両者のあいだに誤解が生じた。 とりわけ
彼女が“business”という単語を不用意にも連発したため、
反発的空気を引き起し、緊張が高まる瞬間もあった。

「僕は武道をビジネスとは考えていません」
師範が語気を強める。
「私の商売は・・・ICPOだ」
誤解を解くため、露西亜のおっさんは身分証を提示した。
(和尚。インターポールって?)
(国際刑事警察機構、だな)
(え?あの、じぇへにがたのとっつぁははぁん、の?)
(やべ。ワシを逮捕しに来たのか)

師範の技を目の当たりにして、露西亜の銭形も、ガラリと
態度を変えた。やはり、通じる者には通じる世界なのだ。

「貴方に会えて良かったです。スパシーバ」
「私も幸せだ。DOMOARIGATO」
日露の武道家は、固い握手を交わし、再会を誓った。

N.Y.に意見広告を!

その手があったかあッ☆ワシは思わず膝を打った。
コラムニスト勝谷誠彦氏やオウム・ウォッチャーとして
お茶の間に知られた有田芳生氏が呼び掛け人となり、
北朝鮮による日本人拉致事件と核兵器開発に対する
意見広告を『New York Times』紙に掲載する運動が
再開した。七年前もワシはこの趣旨に共鳴し、拙HPで
ご紹介したが、今回も非力ながら参加させていただく。
「定額給付金の有効な使い途」
勝谷氏はこれをある時ひらめいたという。
そうなのだ、もともとワシら日本国民が、国家のために
納付した税金なのだから、国民のため、それも今まで
国家のだらしなさの犠牲になって来られた同胞のため
使われてこそ意味がある、とワシは思った。
他でもない、民主主義とはこういう精神を云うはずだ。

振込先等の詳細については以下のURL
http://jinken.asia
携帯サイトは
http://jinken.asia/k

さて、どうやら一部からは活動家と思われているフシが
あるワシだが、無論、そんな大それた代物ではない。
「インド困窮民を救済しておられる和尚」
某人物にそう持ち上げられたが、ナメられたものだ。
単なる“ヨイショ”も行き過ぎれば無礼である。
救済とは、された側が決めることで、行動を起こす側は
あくまで物好き、頼まれざる助っ人、お節介な同情屋だ。
この矜持を忘れたら、偽善になる。
理想やタテマエでこと足れりとするのは加害者の論理。

被害を受けている当事者にとっては、結果がすべて。
現実に救われたかどうか?の問題なのだ。
抹香臭い例えを出すが、
「一切衆生悉有仏性(イッサイシュジョウシツウブッショウ)」
どんな人間でもブッダになれる、という大乗仏教の根本
思想。だが歴史上ではゴータマ・ブッダ以後にブッダが
現れたという事実は、無いのである。

人生には三つの選択肢しかない。
傍観するか、逃げるか、それとも飛び込むか、だ。

わが聖灰

今回は是非カレーライスを食べながらお読み頂きたい。
云うまでもなく、インドは、カレーの国である。
と同時に「下痢」の国でもある。
インドを訪れる外国人は言うに及ばず、現地人も常に
下痢と隣り合わせの食生活を送っている。
理由は、かの地に定着しきった不衛生にあり、それは
悠久の時の流れと共に不変の黄金律となっている。
やれ、IT景気だの目覚ましい経済成長だのと、一部の
メディアが喧しい狂騒曲を奏でようと、都市部に暮らす
富裕層を除き、国民の大多数とは無縁なオハナシだ。

だからワシもあちらでは、よく下痢に罹る。
生来の無鉄砲な性格から、その土地の人々と同じ水を
飲み同じ物を食べることをみずからに義務付けている
ワシにとって、それは税関を通るようなものだ。
が、生身の人間ゆえ、やっぱりツライことはツライ。
最初はオナラ連発。続いて、“きゅ~ごろごろ”と嘆きの
調べが響きだす。でもって遂に、メルトダウン開始だ。
こないだは水にあたった。下町の水道水だ。
農村の井戸なら、逆に天然ミネラル・ウォーターなので、
雑菌が繁殖する乾期と雨期の盛りでなければ、硬水に
さえ慣れていれば、むしろ問題は少ない。
下町こそ要注意。カルキを1000倍強くして病原菌よりも
人類を標的にしたような消毒薬が、ドバッと入ってる。
そいつをしこたま飲み干して、めでたく当たった。

こないだのは特にひどく、およそ三日間ほど続いた。
もう出るもんねえだろ、これ以上下ったらお次は内臓が
出ちまうぞ、というぐらい最終究極秘奥義をくらった。

しかしやがて、ファイナルの時はきた。
なんと!お尻の穴から白い粉が出たのである。
どうやら消毒薬らしい。体内の全消化器官を駆け巡って
あらゆる毒素を撃退排除し、任務を終えて戦場離脱した
のである。勇敢なる戦士の遺骸にしばし黙祷。

あのインチキ手品師サイババは「聖灰」とかいって指の
すきまに隠した白い粉をもったいつけて出すが、ワシは
種も仕掛けもなく、ケツから勇者の御帰還だ。

これから初めてインドへ行かれるご予定のみなさまへ。
サイババよりも消毒薬が、印度の神秘です。

『小三治』

『小三治』

求道者(ぐどうしゃ)。 かような厳めしい形容が、この洒脱を
きわめた名人噺家に相応しいかどうか知らない。
だが、ドキュメンタリー映画『小三治』を観て、そう思った。
柳家小三治師匠。独演会チケット即日完売の、生ける伝説。
その風貌は短髪と痩躯も手伝ってか、ストイックな修行僧の
ようにも見える。否、むしろ「芸道の夜叉」と云うべきか。
師匠の“芸”に料理されると、既に完成されたはずの古典が
まったく別個の姿で立ち現れて来る。
「こんな噺だったのか!」
映画の冒頭、扇子を煙管にして、悠然と煙草をくゆらす師匠。
高座だから落語だろうが、つい至芸に見とれてしまう。
それが『欠伸指南(あくびしなん)』と分かった時、一瞬呆気に
取られた。この映画がドキュメンタリーとして成功した瞬間だ。

小三治師匠は子供の頃から歌が好きで、オーディオ・マニア
としても知られ、またバイクや車をこよなく愛する顔も持つ。
「遊びは、真面目にやらなきゃ遊びにならない」
すべては芸の肥やし。しかも、肥やしにしてやろう、だなんて
野暮で無駄な「力み」はこれっぽっちも見せない。
個人的感想を一つだけ言えば、小三治師匠と弟子が交わす
師弟の情に、ワシ自身の体験を重ねて、泣けてしまった。

「教えることは何もない。ただ見てるだけでいい」

『らくだ』。死体を背負ってカンカン能を踊るという、ブラックな
名作。小三治師匠の「鬼気」が奔流となって客を巻き込む。
映画終盤、『鰍沢(かじかざわ)』は、まさに圧巻。
人間のエゴと悪意、身勝手な欲望と表裏一体の御利益信仰。
どうしようもなく愚かでいとおしい人間の本性。
観客(独演会場も映画館も)は、“偽らざるひとのいとなみ”を
眼前にして、古典が伝える「笑い」と「哀しみ」を知る。

この傑作ドキュメンタリーが単館上映とは、あまりに惜しい。
柳家小三治、という名人と同時代を生きていることの希有な
価値を知れば、人生は倍の意味を持つに違いない。

「これも、お材木(=御題目。信仰)のおかげ」
鰍沢のサゲが解らなくなったとき、日本人は滅びるだろう。
 

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