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2010年4月

赤鰯

シンプルでストレートなものに拒否反応を示す御仁がいる。
とりわけ知識や言葉を弄ぶ輩に多い。
彼らはそれを“大人の知恵”と信じているらしく、汚い腹芸に
せっせといそしむ。まぁ、ひとことで言って、クソだね。
「そんな奴らを黙らせるほどのシンプルでストレートな剛速球
を投げれるようになるしかないんだよね」
親友が云った。
その通りだと思った。クソ知恵や腹芸に付き合ってわざわざ
自分を貶めるのはアホである。
「でも、斬るに値しない相手の前では抜刀しないこと」
そこがワシには難しいんだよな、鞘を持たない性格だから。
「とかいうわりには結構チキンじゃん、和尚って」
わはは☆確かに。こと女に関してはマジちょーチキンだしね。
「それは無節操っていうの」

抜き身の刀を晒して生きてりゃ、そのうち自然に錆びてくる。
『赤鰯(あかいわし)』
錆びて使い物にならなくなった刀のこと。
クソになって長持ちするよりは赤鰯になりたい、とワシは思う。
「鞘に入れたまんまで手入れしなくても錆びるよ」
なるほど、真理だ。
腹芸という鞘に納め続けていても使い物にならなくなる、と。
抜くべき時には迷わず抜刀し、要らぬ時には抜かない。
理屈じゃ分かってるつもりなんだけどねえ。

今ワシは、企業の論理にぶつかっている。
要は、“シンプルでストレートなものは拒否反応を呼ぶ”という
のが向こうの考えらしい。
「上司がこう言ってますもんで」
一時期、信頼もした人物からこの言葉を聞いた時は、呆れた。
ワシは社外の人間であり、上司も部下も関係ない。
たとえ上司と闘ってでも、信頼を守ることができないなら、最初
からワシのようなチンピラと関わらなければ良かったのだ。
おそらく、利用するつもりだったのだろう。
脇の甘さはわが不徳の致すところ。まだまだですなあ。
そんな折、たまたまクルマのラジオからピストルズの『E M I』が
聞こえてきた。神がかったような偶然。・・・天啓だ☆

そうだ。抜き身をやめて、これからは竹槍にしよう。
一向一揆は竹槍で信長軍に突撃した。
『竹槍仏法』。これぞわが信念!(って、あんま変わってねえか)

あれから一年

「Ek saal ho gaya(一年経ったんだねえ)・・・」
しみじみと夫君が呟く。
先日開かれた『アンベードカル博士生誕祭』の慰労を兼ね、
インド仏教徒夫婦の夕餉に招かれた。
夫君の言葉は、佐々井秀嶺師一時帰国から丸一年が経過
した、という感慨から湧き出たものだった。
「和尚が運転する車に載せてもらって、前の晩から泊まり掛
けで成田空港までお迎えに行ったんだよなあ」
「この人ったら運転してる和尚の写真をインドへ送って“俺は
日本で坊さんをドライバーに使ってる”とか親戚に自慢してた
んですよ、ほんっとにもお」
わっははは☆そりゃいい、たいした出世じゃないか。

「でもバンテー・ジーがインドへ帰ってから日本ではあんまり
話題にならなくなったわね」
「いる間だってTVのニュースにもならなかったぞ」
う~ん。自分の国を悪く言いたくないけど、日本ってそういう
とこあるんだよ。風になびくというか流されるというか。
「近頃ではスリランカの坊さんが人気らしいけど、同じ日本人
なのになんでShurei Sasaiに注目しないのかね」
日本人だから、じゃないかな。
「どういうこと?」
見た目が珍しくない、だから面白いと思わない、みたいな感じ
かな。君達からすればShurei Sasaiは見た目が珍しいだろ?
「いいや。インドにはモンゴロイド系民族や、亡命チベット人も
たくさんいるから、ぜんっぜん珍しくないよ」
じゃ、シャールク・カーンとブラッド・ピット、どちらかひとりだけ
選べるとしたら?
「あたしは絶対シャールクだわね」
「俺も同意見。やっぱBOLLYWOOD最高さ!」
例えが悪かった。インド人に映画ネタは喰い付きがよすぎる。

佐々井秀嶺師の言葉を日本人に届ける書籍はない。
山際素男先生亡き後、今では雑誌メディア等による断片的な
出版物以外に佐々井師の言動を伝えるものがない。
しかしそれも外面的な情報であり、佐々井師自身がその内面
を平易な言葉で語ったものは、いまだかつて存在しない。
日本において佐々井師への関心がいまひとつ盛り上がらない
理由は、そのことも大きいのではないか。

「ほら和尚、手が止まってるわよ、しっかり食べてね」
・・・つい考え込んでいた。
奥さん自慢の、スプラウトを使った“サブジー(野菜カレー)”が
めちゃくちゃ美味かった♪

冷春雑感

昨秋から入院していた老親が先日リハビリ施設へ移った。
正確には、移らざるをえなかった。
小泉&竹中時代の改革とやらのせいで、自力呼吸や経口
食が可能となれば、病巣に変化がなくとも、180日を限度に
ほとんど保険がきかなくなる。それが理由だ。
事実、わが老親はいまだ半身不随で、単独では寝返りすら
打てない状態である。
にも関わらず、病院を出て行かなければならなくなった。
これは国民が等しく受けている冷遇だから、改善すべきは
政治行政であり、個人的に誰も恨むことは出来ない。
しかし、そういった全体像を踏まえた上で、病院側の対応、
いわゆるインフォームド・コンセントについては病院経営者
の人格も関わってくるのではないだろうか。

リハビリ施設への転院を“勧告”されたのは二週間程前。
それまで約半年間、容態の経過説明を受けたのは、たった
一度。それも入院一カ月目の時だけであった。
毎月入院費を支払いに行っていた患者家族としてみれば、
「一体どこの世界に明細を出さない商売があるか!」
と言いたくもなる。医療費は御布施か?
指定業者のアメニティ用品リース料もやけに高額で、かなり
キック・バックが上乗せされていたと考えられる。

まぁ、坊主の業界にも、バックの仕組みはある。
お葬式に関して、菩提寺を持たない葬家が葬儀社とじかに
段取りを決めて寺を紹介された場合、坊主は葬家より受け
取った布施の中から何割かを、紹介料として葬儀社へ戻す
ことになっている。
地域によってその割率は異なるが、50%を求めて来る業者
もある。あるいは葬家へ説明する布施の金額に、最初から
キック・バック分を上乗せしている葬儀社もある。

「レントゲン写真は・・・見なくていいね」
これは転院勧告の際、病院長が実際に云った言葉である。
(素人が見たってわかんねえだろ)
ということなのだろうが、ただただ呆れ返った。
平素ならばブチ切れて大波乱を巻き起こすワシではあるが、
場所柄ぐらいは弁えて、柳に風、と聞き流した。

ところが、リハビリ施設に移った日、新たな問題が発覚した。
なんと病院側が介護等級申請をしていなかったのである。
幸い、施設スタッフがすぐに動いてくれたから良かったような
ものの、ヘタをすれば老親は介護難民になっていた。

医は算術、僧侶は走狗。・・・もちろん自戒を込めて。

俺たちA.I.M.

俺たちA.I.M.
俺たちA.I.M.
昨18日、首都圏某所でA.I.M.Japan在日インド仏教徒による
『仏誕祭&アンベードカル博士生誕祭』が催された。
A.I.M.Japanでは例年行事として、春にはこの式典、10月は
『改宗記念祭』そして12月に『成道会&アンベードカル博士
涅槃会』を開いている。
一昨年10月の『改宗記念祭』以来、久しぶりに彼らの招待
を受けた。というのも、2009年は“佐々井秀嶺師一時帰国”
という大イヴェントがあったため、A.I.M.Japanの行事予定も
大幅に変更されていたからだ。

世界的組織であるA.I.M.(Ambedkar International Mission)
の特筆すべき点は、組織内に上下関係が無い、ということ。
つまり、代表、顧問、名誉ナントカなど、いわゆる
「役乞食」
の出る幕が無い。会計すらメンバーの持ち回りでしている。
それはなぜか?云うまでもなく、仏教だから、である。
差別解放を目指す仏教団体の中に階級制度が存在しては
矛盾以外のなにものでもない。メンバー間の秩序は常識に
則っている。まさにサンガ(僧伽=共同体)なのだ。

司会者に促され登壇したワシは、パーリ語勤行のあと、
「怒ること」
と題して、冗談まじりのヒンディー語法話。もちろん、近ごろ
日本で売れてる某僧侶をパロったものだ。
「われわれの先生、佐々井秀嶺師は、じつによく怒るねえ」
会場、ドッ☆と爆笑。
「怒りは、慈悲なんだよ。世の不義不正に泣かされてる者の
ために怒る。怒らなくていい世の中にしたいから怒る」
そおだあっ!と若い衆から合いの手が入る。
「日本人はサイババを知っててもササイ・ババ(佐々井行者)
を知らない人が多い。インドのみんなから教えてやってくれ」
うおおーっ!と鬨の声。いかんな、あおってしまった。

帰路、中年のメンバーから言われた。
「和尚の話はrock'n'roll concertみたいですねえ」
・・・めんぼくない。

魔女リティ

自分を“多数派”の中に位置付けたい、と思う御仁がいる。
まあ、ヒトは好きずきだからね。
数を頼んで自己保全を企てるのも処世術としてアリだろう。
それに、味方づくり、は兵法の基本でもある。
だが多数派は文字通りその数の力で無言の暴力にも成り
得るものだ。顔を消し、隣に同意を求め、陣形を張る。
「・・・ねえ?」
「ほら、みんな言ってんじゃん」
いくら人間にはいろいろなタイプがいるとはいえこれをやら
れるとワシは一気に萎える。戦闘意欲が消失し、百年の恋
も一瞬で冷める。そうなったら、三十六計バックレの術だ。
斬るに値しない相手の前では抜刀しない。

数の力が暴走すると、魔女裁判になる。
ワシはこれを“多数派=Majority”に引っ掛け「魔女リティ」
と呼んでいる。
個々の顔を失くし、声の調子も意見も周囲に同化し、数の
一員となることで「ちから」を得たと勘違いする。
魔女リティを拠り所にすれば、あらゆる物事を最大公約数
で手打ちしなければならなくなる。
そのくせ、魔女リティ構成員に限って、やたらと個性を礼賛
したがるのだから失笑を禁じえない。自分を失くして生きる
ことの言い訳を探しているのか。
多数派の群集心理を兵法に利用できるのは、孤高の軍師
だけである。

魔女リティは、浮かれたがる。
多数派になった途端、いきなり自分の身長が伸びたように
錯覚し、また体力や腕力まで増したように妄想する。
等身大を見失うのが魔女リティの怖さだ。

だからこそ『少数派の気概』を忘れないようにしたいと思う。
Minority。いささか戦闘的ゆえに、「前ノリ」ティでもある。
数を頼めないぶん傷つくことも多いが、no pain, no gain。
だいいち、多数派の価値基準なんざ気にするだけムダだ。
そんなものは流動的で、いつコロッと変わるか分からない。
前ノリティの気概とは、who am I?の問いでもあるのだ。

自分はこの世に一人。もともと少数派なのだから。

四苦医療

先週は老親が転院するためのリハビリ施設を何ヶ所か面談
して回った。
これまで病院側から段階的な経過報告もなく、いきなり、
「えー、ココとココとココを訪ねて下さい」
と言われたので、ふうん、そんなもんか、と指示に従った。
結果はどこも満床。
その後、病院受付へ毎月の入院費を支払いに行ったら、
「電脳さんは長期になりましたので先月分から金額が下がり
ました。改めて計算してお知らせ致します」
・・・なんだ、そういうことか。安いお客、ってわけね。

医療問題。皆が平等に直面せざる得ない壁。
ワシ自身も一昨年、約十箇月近く通院した経験があり、また
その時は一番最初に紹介状を携えて行った大病院で
「専門医が木曜だけの出勤ですので」
と門前払いを喰った。ちなみに、ワシが行ったのは金曜日。
顔面蒼白で足元がおぼつかない患者に、一週間待て、と。

もちろん良心的で誠意溢れるドクターもいる。
幸い、ワシの知人には“斯界の権威”と称される医師もいて、
時々電話で相談に乗ってもらっている。
ただ、なにぶんサイエンスの世界の住人だけあって、微妙な
言語表現のニュアンスや心情的配慮はあまり期待できない。
いわば『スター・トレック』のMr.スポックみたいな感じだ。
「和尚、それは論理的ではありませんね」

仏教で云う『四苦』。生・老・病・死。
死、は消滅ゆえに感情処理のしようもあるが、生・老・病には
その前後にリアルで生々しい現実が連続する。
また『四苦』を自分個人の問題として捉えているうちは立派な
御託宣を垂れる(葬式はいらない、とか?)こともできようが、
自分以外の人の四苦を眼前にした時、果たして、どれだけの
人間がスポック風に振る舞えるだろうか。
その意味で『四苦』の現場に日々立ち向かっている医師には
心底から敬意を表する。

苦、のうちにいる時、人は、理念も思想も喪失する。
生存本能だけの動物に戻る。
むしろ、そこにこそ「生」の本質が在るのではないか。
その混沌とした、あたかも大蛇が鎌首をもたげたような「生」
と対峙せずして、いかなる思想も成り立ちえない。と思う。

非尊敬主義

「和尚の尊敬する人物は?」
と聞かれたら、デヴィッド・カヴァーデイル、と答える。
(※70年代ハード・ロックの雄:Deep Purple、第Ⅲ、Ⅳ期の
ヴォーカリストでその後Whitesnakeを結成)
理由は、歌がウマイから、である。
実際ワシはバンド青年時代、彼の唱法はもとより髪形まで
真似ていたし、仲間には“でびっど”と呼ばせていた。
・・・すんません。しょっぱい青春の思い出です。
質問した相手は当然の如く「へ?」もしくは「はあ?」という
顔をする。ブッダとか親鸞とか佐々井秀嶺とか、期待した
答えではないからだろう。
正直に言うと、本当の意味で尊敬する人物はいないのだ。
そもそもお釈迦様や親鸞は尊敬の対象どころではないし、
崇拝とも違う。たかがチンピラ坊主のワシからすれば、
「マジすげーえらいひと」
また、佐々井秀嶺師にしてもスケールがでか過ぎる。まあ、
強いて言うならば佐々井師に対しては“惚れてる”といった
感じだ。ソンケー、などというよそよそしさはない。

尊敬は上昇志向と表裏一体である。
あの人のようになりたい、と思い、そのために努力する。
それ自体は良いことだが、少なくとも尊敬対象に手が届く
距離に自分がいる(勘違いも含めて)という自意識がある
からこそ、尊敬するわけだ。
向上心を持つことは大いに結構だが、『上下の価値観』は
大いに疑ってみる必要がある。
そんなものはコンプレックスの裏返しに過ぎないし、他者を
見下したい、という野心が化粧を変えただけだ。
ましていわんや、崇拝なんざ、ほとんどビョーキである。
てめえの偽りない姿から目を逸らし、判断を預け(放棄)て
恍惚郷に入ることを「浄化」や「癒し」と錯覚してるだけだ。

思うに尊敬の念とは、自己再確認なのではないか。
自分が立っている場所を、他者を通じてリコンファームする
わけだ。そのような自覚を持った上での尊敬ならば現実の
役にも立つが、尊敬したくて尊敬する、というのは敗北宣言
に等しい。

浄化され得ない自分の本性をガッツリ見つめる。
癒しを求めるのは「卑しい」と、腹をくくって中指立てる。
そのほうが人生、リアルだずぇい。

求道と功徳

数々の名作を世に送り出してきた映画監督の言葉。
「撮り終わって編集段階に入ったら、真っ先に切るべきは
監督自身が一番思い入れのある場面だ。言いたいことの
ほとんどは、自己満足に由来する。観客にとって、それは
往々にしてクドイだけである」
至言だ、と思う。
表現者は表現が目的であって、それが受け手にどう映る
かを、考えてるつもりでじつはあまり考えていない。
もとより何事かを表現しようとする以上、ある程度あつか
ましい神経を持っていなければ、沈黙するしかない。
万人に受け入れられるものを作ろうとすれば無味無臭の
“なくてもいいもの”を出すしかなくなる。
屁にも劣るね。

クドイ、といえばインド人は、かなりクドイ。
塩と油とマサラをふんだんに使ったカレーばかりを朝昼晩
口にしているせいか、性格までちょ~クドイ。
あちらの人々とはかれこれ20年近いお付き合いになるが、
いまだかつて、“あっさりスッキリ”の系インド人とは片手で
数え切れるほどしか会ったことがない。
彼らはとにかく繰り返す。似たような内容を何度も繰り返す
ことで真実味が増す、と本気で信じてるようだ。
日本に伝わった仏典の中にも、反復や重複が頻出する。
漢訳仏典だけではなく、パーリ原典やサンスクリット原典を
確認してみても、そのクドサは変わらない。
ワシ的にこういう箇所は、いわばギターのリフみたいなもん
だと思ってる。ROCKの名曲にはイントロから一貫して必ず
キメのリフがある。まぁ、お経も似たようなもんだ、と。

ひるがえって、クドイのは悪いことか?と自問してみる。
言うまでもないが、他者に対してクドイのはハタ迷惑なだけ
である。
先に引いた映画監督の言葉にもある如く、自己満足の押し
付けはゴメンだ。一歩まちがえれば、ストーカーになる。
しかし、自分に対してクドイのは、良いことだと思う。
掘り下げていく努力をしなければ何も掘り当てることはでき
ない。そういう自己満足は、おおいにすべきだ。

『求道(ぐどう)』。それはクドイ。つまり求道い、ということ。
そして、いつまでもクドクド続けるから、功徳(クドク)になる
のである。・・・てか、この文章クドイ?

随処主

友人のミュージシャンとアンサンブルの妙味について歓談。
というより途中まで語らって、
「・・・だよねー。たまんないよねー」
あとは以心伝心。当然である。言葉で表現しきれるのなら
音楽など要らぬ道理だ。感じられない者に分からせようと
しても徒労に終わる。感じる者には、必ず分かる。
だが、“感じる・分かる”というのは能力の優劣とは無関係
である。感じなくても賢い人はたくさんいるだろうし、分から
なくてもそれなりに幸福な人生を送れる。と思う。

ある禅僧は若き日、“すべての人々が救われねばならない
(無論、自分自身が苦悩から解放されることも含む)”、との
理想を抱いていた。ゆえに、仏教で云うところの、
「縁なき衆生は度し難し」
この言葉に納得がいかなかった。そこで老師に問うと、
「お前な、道を歩いてて犬のウンコが落ちてたら踏むか?」
禅語は常識的な言語思考を破壊する爆弾みたいなところが
あるから、慣れないと誤解する。
また禅語には、人間の偽らざる実態を糞に例えて表現する
(『人間本来糞袋』、『仏は糞かき箆』)という伝統があるのを
知らないと、この老師の言葉が示すものは見えて来ない。
人間サマを犬のウンコに例えるなんて!と思うのは、浅い。
中途半端な慈悲もどきは、むしろ有害、ということだ。

ワシの友達にこの話をした時、彼はこう云った。
「俺なら踏むね」
どうして?
「避けたり中途半端に踏むんじゃなくて、形が無くなるほど
グッチャグチャに踏み潰して、消し去ってやるね」
・・・極意・・・か?

随処に主となる。これも仏教語。
人生のあらゆる局面において主体的に判断し行動せよ、と
いうような意味。ホラ、よくいんじゃん、
「みんながそう言ってるよ」
とか云う奴。みっともねーっつうか、クソだね。あと、
「いやあ、尊敬します」
反吐が出るぜ。リスペクターなんて、主になる孤独に耐えら
れない奴が、群れたがってるだけじゃん。

アンサンブルは、群ではない。
主と主が、互いに共鳴して生み出す調和なのである。

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