2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト

« ダキニうどん | トップページ | 求道と功徳 »

随処主

友人のミュージシャンとアンサンブルの妙味について歓談。
というより途中まで語らって、
「・・・だよねー。たまんないよねー」
あとは以心伝心。当然である。言葉で表現しきれるのなら
音楽など要らぬ道理だ。感じられない者に分からせようと
しても徒労に終わる。感じる者には、必ず分かる。
だが、“感じる・分かる”というのは能力の優劣とは無関係
である。感じなくても賢い人はたくさんいるだろうし、分から
なくてもそれなりに幸福な人生を送れる。と思う。

ある禅僧は若き日、“すべての人々が救われねばならない
(無論、自分自身が苦悩から解放されることも含む)”、との
理想を抱いていた。ゆえに、仏教で云うところの、
「縁なき衆生は度し難し」
この言葉に納得がいかなかった。そこで老師に問うと、
「お前な、道を歩いてて犬のウンコが落ちてたら踏むか?」
禅語は常識的な言語思考を破壊する爆弾みたいなところが
あるから、慣れないと誤解する。
また禅語には、人間の偽らざる実態を糞に例えて表現する
(『人間本来糞袋』、『仏は糞かき箆』)という伝統があるのを
知らないと、この老師の言葉が示すものは見えて来ない。
人間サマを犬のウンコに例えるなんて!と思うのは、浅い。
中途半端な慈悲もどきは、むしろ有害、ということだ。

ワシの友達にこの話をした時、彼はこう云った。
「俺なら踏むね」
どうして?
「避けたり中途半端に踏むんじゃなくて、形が無くなるほど
グッチャグチャに踏み潰して、消し去ってやるね」
・・・極意・・・か?

随処に主となる。これも仏教語。
人生のあらゆる局面において主体的に判断し行動せよ、と
いうような意味。ホラ、よくいんじゃん、
「みんながそう言ってるよ」
とか云う奴。みっともねーっつうか、クソだね。あと、
「いやあ、尊敬します」
反吐が出るぜ。リスペクターなんて、主になる孤独に耐えら
れない奴が、群れたがってるだけじゃん。

アンサンブルは、群ではない。
主と主が、互いに共鳴して生み出す調和なのである。

« ダキニうどん | トップページ | 求道と功徳 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/503578/47973665

この記事へのトラックバック一覧です: 随処主:

« ダキニうどん | トップページ | 求道と功徳 »