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2010年6月

『Samgha Japan』

サンガ出版より『Samgha Japan Vol.2』が発売された。
特集《がんばれ日本仏教》と題し、オビには「日本仏教破壊
と再生の時」とのキャッチが目を引く。定価1800円+税。
この書にはわが畏友がふたり、それぞれ寄稿している。
まず冒頭、フォト・ジャーナリスト山本宗補氏による写真と文
「インド仏教の頂点に立つ僧侶」、そして172Pから映像作家
小林三旅氏「佐々井秀嶺四十四年ぶり帰国道中顛末記」。
ふたりとも、過去数年に渡りインドで佐々井師の活動を取材
し続けてきた“事実の証人”であり、また昨春、二カ月に及ぶ
佐々井師の一時帰国に際しては、師から直接、同行取材を
許可された信頼厚き報道人である。

初夏の頃、小林三旅氏から電話があった。
「今度サンガに佐々井さんについて書くんですが和尚のこと
も書こうと思って」
ひえ~。がその時の感想。三旅氏や山本氏とは公私ともに
親しくしてもらっており、ワシの恥ずかしい話やみっともない
話など、全部バレバレなのだ。よくふたりからイジられる。
「長い付き合いですがじっくりと話を聞いたことなかったです
もんね」
たしかに。佐々井秀嶺師というあまりにも強烈過ぎる存在を
中心にしてつながった輪だから、出会う以前の身の上話的
なことは、お互いあまりして来なかったように思う。
話すうち例によってワシが一方的にヒート・アップしてしまい、
結局、中年男の長電話になってしまった。

さて、『Samgha Japan Vol.2』、早速拝読。
三旅氏の寄稿を読むうち、活字が何度も涙で霞んだ。
実際に現場を知っているものだけが伝えうる事実の数々は、
懐かしさも手伝って、万感胸に迫った。
また、わがことながら、「龍智さん(=ワシ)」に関するくだりを
読んだ時には、つい嗚咽を洩らしてしまった。
かつてインド各地を巡り、佐々井師と邂逅した頃の思い出が
よみがえり、思わず本を閉じて目頭を押さえた。

『道標』
佐々井秀嶺師が滞在中、揮毫を頼まれて記した文言だ。
そのいわれについては実際に本で確認して欲しいので、ここ
ではあえて説明しない。
「オメェ、そんなこといちいち聞くなよ、俺は泣いてんだよ」
(本文より佐々井師の言葉)
・・・ワシも泣いた。

『ソウル・パワー』

様々な市場から“本物”が敬遠されるようになって久しい。
ポップであることが妥協を前提とし、みずから進んでクソ
になるのを受け入れる意味になってから、ずいぶつ経つ。
だから、久々に問答無用の本物を見せつけられた。

映画『SOULPOWER』 LIVE & DOCUMENT
at Kinshasa, Zaire 1974 September

拳闘史に「キンシャサの奇跡」と刻まれたモハメド・アリ対
ジョージ・フォアマンの一戦に先駆けて、ザイールで開催
された空前の大コンサート『ザイール'74』。
James Brown、Spinners、Bill Withers、B.B.Kingらソウルの
大御所が一堂に会し、彼らのルーツたるアフリカの大地で
超絶的パフォーマンスを次々に披露、聴衆を熱狂させた。
その模様を克明に記録したのが、この映画だ。
しかも人種差別問題に正面から言及しており、アリが例の
口調で白人メディアを挑発するシーンは必見だ。
「奴隷を解放したくない。図星だろう?」

ザイールは、現在のコンゴ共和国である。
首都:キンシャサ。ベルギーによる植民地支配から1960年
独立、その後の内乱とベルギー軍の介入でコンゴ動乱が
起きる。1965年、クーデタによりモブツ政権が誕生、71年、
国名をザイールに変えた。77年まで独裁政治が続いたが、
同年5月、民主化勢力によってモブツ政権が倒れ、今日の
コンゴ共和国となった。
映画の中で印象的な場面の一つに、市街へ土産物を買い
に出かけた大御所らが、おなじアフリカン同士でありながら
英語とフランス語のため言葉が通じなかったシーンがある。
文化、言語、宗教、そして何よりも人間としての尊厳。
あらゆるものを奪われた過去を背負いながら、彼らはその
熱き魂(SOULPOWER)で立ち上がる。

この作品で演奏される音楽をブラック・ミュージックといった
カテゴリーでくくるのは、感性が貧困、といわざるえない。
ソウル、をジャンルの名称としか認識できないなら、それは
音楽そのものが“わかってねえ”証拠だろう。
<剥き出しの魂>
これにはPUNKであろうとマリアッチであろうと浪曲であろう
と関係ない。優れたパフォーマンスは、皆、ソウルなのだ。
まさに SAME BEAT である。

「俺はれっきとした人間だ(I am somebody)」
ラストで語られるJ.B.の言葉。 ・・・超必見☆の映画だ。

善き光

善き光
去る6月20日、長野ビッグハットにて開かれたダライ・ラマ
14世法王猊下の来日特別記念講演を拝聴した。
『善き光に導かれて』-今、伝えたい心-
GUIDE TO POSITIVE CLEAR LIGHT
A heartfelt message for today

と題した法筵には約六千人が集い、法王の慈音に触れた。

まず善光寺諸尊宿の調声により参加者全員で般若心経。
そして、ダライ・ラマ14世法王猊下の御登壇。
法話は般若心経の解説から始まった。
「無眼耳鼻舌身意・・・、無、無、無、とすべての感覚とその
対象となる外界には本質的に実体が無いのです」
ひとくだり入門書的な講義をした後、法王は、
「こういう話に興味ありますか?無かったらやめますが」
独特のユーモアを交えて話す。
「今回は皆さん最初に般若心経を唱和されましたが、以前、
それがなかった時、私ひとりでチベット語で般若心経を唱え
ました。実を言いますとその時、お経を間違えたのですが、
チベット語なので誰にも気付かれませんでした」
ひゃっひゃっひゃっ、と笑う。
般若心経の説く“無”、“空”を、堅苦しくなく、ジョークと共に
身をもって示された。

「世界的な経済危機や環境問題などはそれぞれの国々が
自国の繁栄という“我”に執着して、全世界、全人類のため
といった慈悲の視点で考えないからだと思います」
空、無我が、慈悲の心であることを説く。
「人間の心はニュートラルです。光にも闇にも支配されうる。
だからこそ、CLEAR LIGHT に向かって CHANGE するべき
なのです」

「日本人には英語が苦手な人が少なくないようですね。私の
英語だってブロークンですが、なんとか通じてます。これから
の日本の若者は、もっと英語を習得して、どんどん海外へと
出て行く必要があると思います」
続いて、英語圏ではない国民の例として、
「中国人には英語を身につけて外国で活躍している人達が
たくさんいますよ」
これはあえて深読みしないでおこう。

最後に、いわずもがなの私的感想を一言だけ。
ダライ・ラマ法王に会いたくても会えないチベット民衆のこと
を忘れてはならない。雪のヒマラヤで銃火に倒れる人、また
運良く国境を越えても凍傷のため足首から下が腐り落ちて
しまった人々が、いま現にいる、ということを。

V字回復?

かつて『巨人の星』の主人公星飛雄馬が編み出した魔球
大リーグボール2号、通称「消える魔球」。
その消えるメカニズム(?)は打者の目前でボールが急に
ドロップすると同時に球の回転が巻き込んでいたマウンド
の土が解き放たれ煙となり球筋をカモフラージュしながら
地面すれすれでホップをしつつグラウンドから土煙を巻き
上げてキャッチャー・ミットへ納まる・・・というもの。
いやあ、さっぱりわからん。
つまりボールがV字に変化するわけだ。落ちて、上がる。

昨今のわが国の政治状況に押し当てて見ると、なるほど、
と思えなくもない。
落ちる球筋が、実はカモフラージュの役目を果たしており、
忽然と浮かび上がったボールは消える前より斬新で期待
が持てるかのような鮮やかさを放つ。
しかし、ボール自体はおんなじ球なのである。
そもそもV字回復など本当にありえることなのだろうか。
単なる反発作用を回復と呼んで良いなら、いわゆる民意
というものは“野党根性”と変わらないように思える。

かといって現最大野党の党首はキャラが薄過ぎる。
あの官僚然としたアクも臭みもない人物では、消える魔球
どころか「消えた前与党」でしかない。
星飛雄馬のライバルの一人で米メジャー・リーグから中日
ドラゴンズへ移籍したオズマが、
「消える魔球は、ただワン・バウンドしているだけだ!」
と、日本の打者や主審をナメ切った推理をしたが、まさしく
前与党はワンバン(地に落ちた)である。

だからV字回復が冷静かつ客観的に見てどんなに不自然
であろうと、そうなるしか民意の納まりどころがない、という
ことなのだと思う。
Y字開脚のように華麗なアクロバットは一時的な見栄えは
良いが、沖縄基地移転問題のウソ公約の如く、地に足が
着かない。

オズマは中日へ移籍後、ベトナム戦争に徴兵される。
戦地で傷を負い、帰還したのち背中に爆弾の破片が食い
込んだ状態のまま、星に最後の勝負を挑む。
そして、アメリカに帰って死ぬ。
ちなみに星は貧乏長屋で育ち、オズマは黒人であった。

再演決定!


昨年六月に山梨県甲府桜座にて初演した実験的ライヴが
いよいよ復活する。
日本の古典芸能、人形浄瑠璃(文楽)とインドの古典音楽
シタール、ブルージィなギター、そして声明(しょうみょう)の
コラボが生み出す化学反応は画期的な試みといえよう。
詩聖:タゴールの『ベンガルの苦行者』をベースに、物語の
舞台を日本へ移して繰り広げられるラヴ・ストーリー。


<あらすじ>
主人公は、永遠の生命を求めて修行に打ち込む青年僧。
彼には幼馴染みの娘がいた。
娘は、時には花を摘み、時には飲み水を汲み、青年僧の
世話をする。やがて美しく成長した娘は、それが初恋だと
気づく。彼女の思いを察した僧は、修行の邪魔になるから
と、娘を避けるようになる。
しかし、僧自身も娘への恋心に煩悶し、狂乱する。
娘は思う。私の存在があの人を苦しめてしまった、と。
そして切なさのあまり、病に倒れる娘。
僧は、命は儚いからこそかけがえない、という真実を悟る。
永遠の生命より、目の前にある小さな一つの命。
蘇生した娘を抱き抱え、立ち上がる僧。
ふたりを、天から注ぐ光明が柔らかく包んでいく・・・。
(写真は昨年の桜座公演)


◎7月10日(土)  《文楽人形・声明・シタール・ギター》
players: 伊藤公朗:シタール 
吉田勘緑:文楽人形  
高山龍智:声明  
伊藤快:ギター
at:カフェレストランShu
神奈川県相模原市藤野町日連981 Tel:042-687-2333
open: 17:00
start:: 17:30
charge: ¥3500 お食事:¥1500
ご予約・お問い合わせ:Tel:042-687-2333
メール:
cafeshu@live.jp

如意の憂鬱

如意の憂鬱
如意輪観音は、なぜつまらなそうな顔をしてるのだろう。
衆生を済度すること意のままにして、諸魔を摧破すること
自在なる菩薩にしては、頬杖ついてかったるい感じだ。
なにもかも思い通りになるというのは、恐ろしくつまらない
ことなのかも知れない。如意輪観音の梵名は、
『Chintaamani-chakra(チンターマニ・チャクラ)』
如意宝珠と輪宝。つまり無限の福徳をもたらす珠と、無敵
の投擲円盤を持つ者、という意味だ。
いわばこの菩薩おひとりで、経済も防衛もOKなのである。
そりゃつまんねえだろな、と思う。
「あ、俺がやっとくからさ、みんな遊んどいていいよ」
(・・・ったくよぉ、てめえら向上しろよ)
本当はそう言いたくても、大慈大悲の菩薩ゆえただ黙々と
衆生のワガママを聞いてやるしかない。あの頬杖姿は、
「はいはい、聞いてますよ~。・・・で?」
というせめてもの意思表示ではないか、と思ってしまう。
実際には、思惟像という「考える人のポーズ」ではあるが。

“強者の傲慢”は、よく指摘されるところだが、弱者を自称
する者達の強欲さは叩かれることが少ないようだ。
自分では何もしないで周囲や相手が自分に好ましいように
変わることを期待し、かなえられないと不満を口にする。
乳母車の中でミルクをねだる赤ん坊レベルのことを、大の
オトナが恥ずかしげもなくやってのける。
そういう輩は、真の弱者に対して信じられないほど冷酷だ。
抽象論では伝わりにくいので、日常の風景から引こう。
チャリに乗ったオバハンが歩道をわが物顔に走っていたと
する。前方には白い杖をついた視覚障害者。オバ曰く、
「あぶないわねえっ、どいてよ!」
オバは、チャリをいったん降りて歩行者を回避し、また乗る
ためのカロリー消費を惜しんだが、本人はダイエット目的で
自転車をこいでいる。そして自分自身を“交通弱者”と思い
込んでいるのである。
無論これは、あえて卑近な例を出したわけで、敷衍すれば
現代社会の到る処に自称弱者を見つけられると思う。

観音様が、アン如意(ニュイ)になるのも無理はない、か。

洛陽雑感

久しぶりに上洛した。半年振りの京都だった。
修学旅行の生徒で賑わう駅構内を抜け、かねて見慣れた
街へ出る。強い日差しの中にそびえ立つ大伽藍。
以前と変わらぬ光景に、そこから受ける印象も変わらない。
それは、違和感。
(なんでこんなに威圧的なんだろう)
民衆の宗派、を自称する本山が、少しも民衆的でない。
見る者に「どうだ、マイッタか?」と言わんばかりの威容だ。
おそらくその理由はここを宮殿とするemperor一族の存在と
無関係ではあるまい。
ブッダは『カースト制度(聖職者の血統世襲を頂点とする身
分差別)』を否定し、人間の平等を説いた。
その流れを受けた日本仏教各宗の祖師方は、それぞれの
教義的立場は異なれど、人間解放の道を切り開いた。

そして、それら祖師方の中で、もっとも庶民的ともいわれる
人物を開祖と仰ぐ宗派の本山が、この宮殿だ。
主は、血統世襲。かかる根本的な大矛盾を象徴するような
大伽藍を前に違和感を抱くことは、本能だと思う。
おのれを正義に仕立てるつもりはない。所詮、王様は裸だ、
と言ってしまう青臭いガキの感覚である。
『GOD SAVE THE QUEEN』
ピストルズの曲が頭の中で鳴り響いてるだけだ。ゆえに、
(BUDDHA SAVE THE EMPEROR?)
と問いたくなるのだ。
もちろん、みほとけは、名も無き民草も、階級差別の頂点に
君臨するemperorも、一味平等に摂取したもう。
だがしかし・・・、と思ってしまう。

『ANARCHY IN THE U.K.』は「I am a anti-christ」で始まる。
キリスト教社会のなかで反キリストを言う姿勢は、反骨という
よりも、馬鹿正直と見るべきではないのか。
真っ直ぐに自分を見つめ直せば、そこには到底、模範的な
信仰者とはいえない“背教者”の顔が潜んでいるはずだ。
「愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑す」
と告白した人物を開祖と仰ぐ宗派のemperorと、その一族の
周囲で階級制度の旨味にあやかる者達は、
「I am a anti-buddhist」
これが、せめてもの信仰表明ではないだろうか。

「No future, No future, No future for you」
一般信者の往生(future)を「No!」と断じるつもりがないので
あれば・・・、などと皮肉るのも、所詮はガキの感覚か。

食事ウンチ・ク

食事してる姿を他人に晒すことは、多かれ少なかれ、恥ず
べき行為だと思っている。本能の営みとして考えれば肛門
を人前に晒すことに近い。
一緒にメシを喰う、というのは相手に対して警戒心を持って
いない、あるいは友誼を望んでいることの外交的な表現。
食事本来の目的である栄養補給や、食欲を満たすこととは
意味が違う。いわんや口に合う合わないは、問題外。
だからこそ外交的気遣いが要らない顔ぶれ、つまり家族や
友人と囲む食卓が愉しいのは言うまでもない。
ワシは基本的に、旅の醍醐味は一人旅、飯も同じく一人飯
という主義なので、同席して愉しく感じられるのは一人旅が
“できる”ヒト、ということになる。偏屈は承知の上だ。

ゆえにこそ、他人が食べてるものを覗き込んで、
「美味しそうですねえ」
だとかホザク輩は勘弁して欲しい。しかもきゃつらは、その
ように言えば食事してる当事者が喜ぶと本気で思っている
わけではないのだ。
「ええ。エヘヘ、いやあ、なかなかの味ですよ」
みたいなリアクションを取らせることが目的であって、味の
評価などまったく求めていない。
他人がしゃがんだ便器を覗き込んで、いいカタチのウンコ
ですねえ、と本気で言う奴がいないのと同じ(?)だ。
きゃつらの目論見は食事している人間の手を止めさせて、
てめえらのヌルイ空間に巻き込みたいだけなのだ。
「じゃ、こちらと同じものを一つ」
などと注文された日には、いかに美味なる一品といえども、
途端に“消化前のウンコ”と成り果てる。

「和尚の性格を一言で表わせば、野生動物、だよな」
古い友人が云った。
おおー、そんなにワイルドかワシは。悪い気はしねえな。
「ちげえよ。ジャッカルとかハイエナとか、餌にかぶりついて
いるところを邪魔されると、怒るじゃん。そんな感じね」
興味対象に没頭する真摯な態度、と云ってくれ。
「そのくせ極端に飽きっぽいじゃん。本能のままに行動する
野生動物、それも中型、もしくは小型だね」
ちょっとは“救い”の糊代を残しといてくだせえダンナ様。
「まぁ、ハイエナと決定的に違うのは、群に属さない、って点
だよな。それは、イイんじゃない?」

サバンナを一人旅するハイエナか・・・。OK☆悪くないね♪

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