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2010年12月

闘う仏教徒たち

畏友のインド研究者:榎木美樹さんが社会学の視点
からまとめた調査報告が出版された。

『インドの「闘う」仏教徒たち』(風響社)
改宗不可触民と亡命チベット人の苦難と現在
~ブックレット《アジアを学ぼう》18~
ISBN678-4-89489-745-8 定価800円+税

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榎木さんは佐々井秀嶺師に随身同行しナグプールの
仏教徒を面接調査、またダラムサラのチベット仏教徒
と暮らしを共にしつつ、亡命政府の内実を詳細に報告
してくれた。
一見、被差別民と難民という虐げられた仏教徒同士の
間に親和性を夢想しがちだが、インド中南部と北西部、
その地理的な距離以上に、彼らの隔たりは大きい。
コミュニティーごとに分断されたインド社会という特殊な
環境の中で、インド仏教徒とチベット仏教徒は、現在に
到るまでほとんど交流がなかった。
その理由の一つとして、インド仏教徒が聖地奪還等の
政治運動を起こすことは国民の権利だが、同じことを
亡命チベット仏教徒がすれば内政干渉になってしまう、
という致し方ない事情がある。
榎木さんはこういった過去を踏まえた上で両者が現在
それぞれ抱える問題点を忌憚なく挙げ、そして未来へ
希望をつなぐ。

「あとがき」(63頁)で紹介される佐々井師が榎木さんに
語った言葉は感動的だ。ぜひとも、
佐々井秀嶺師著『必生 闘う仏教』(集英社新書)
と合わせてお読みいただきたい。

解放

解放
解放
修行者ゴータマは断食によって衰えた体力を近隣の
村娘スジャーターが供養した乳粥によって取り戻し、
菩提を得た・・・人口に膾炙したエピソードだ。
さて、乳粥を食したゴータマを見て、その時まで共に
修行していた五人の比丘が、彼は挫折した、と軽蔑
して去ったといわれるが、この点についてインドには
もうひとつ別の解釈がある。
スジャーターが不可触民だった、という言い伝えだ。
カースト制度においては低位階級の者が作った料理
を食べると宗教的に穢れる、という迷信がある。
そのため今日でも地方へ行くと、大衆食堂の看板に、
「BRAHMIN MEALS」(当店の料理人は婆羅門です)と
明記されている光景に遭遇する。
最高位階級出身者が作ったカレーならば多少お店が
不衛生でも宗教的に清潔だから大丈夫、と客は安心
するわけだ。決して冗談ではない。
ゴータマはブッダとなる以前からカースト差別に反対
していたので、スジャーターが差し出した乳粥も、あり
がたく頂戴したのだ、という解釈である。
そもそもインドでは断食中といえど果物や軽食を口に
することは珍しくない。(『必生』71頁)
ましてや乳粥は、“キール”という名のお菓子だ。
五比丘もその程度はみな摂取していたと考えるのが
インド的に自然であり、要は、作り手の階級なのだ。
「不可触民が作った菓子を食べたゴータマは穢れた。
こちらに感染する前に、逃げ出そう!」
日本的先入観にとらわれず、今も続くインドの日常に
照らして見るならば、このほうがしっくりくる。

写真下は、風船ガムをふくらましておどける仏教徒の
少女。現代のスジャーターはお茶目さんだった。

白道

白道
白道
一億五千万人ともいわれる現代インド仏教徒。その
ひとりひとりと、佐々井秀嶺師は向き合っている。
個々の訴えに真正面から耳を傾け、各々の苦しみを
両手でしっかりと受けとめる。
この日佐々井師は、ひとりの老婆に請われて彼女が
暮らす集落を訪ねた。いわゆる“不可触民”の村。
季節は冬といえど、日中はかなり暑い。その日差しに
乾いた牛糞が埃となって舞い散り、羽虫が飛び交う。
「お寺が壊れちまったんだよ」
老婆が指差したのは干乾し煉瓦を積み上げた納屋の
ごとき倒壊家屋。割れた外壁の隙間から中を覗けば、
小さな仏像とアンベードカル博士の肖像画が見えた。
僧侶はおらず、篤信の村人たちによって守られてきた
仏法道場だ。
「よし、わかった。すぐになんとかしよう!」
佐々井師が老婆を見つめて力強く励ます。
そこへ、小学校低学年ぐらいの姉妹が挨拶に現れた。
「ワンダミー、バンテー・ジー」
聞けば倒壊した寺は、村の分教場も兼ねており、今は
隣接した小屋で授業が続けられている、という。
「この村の周りはヒンドゥー教徒ばかりだから村の子供
らは不便でもここで勉強するしかないんです」
側にいた青年が呟いた。
インド仏教徒が歩む道は、常に差別の火と抑圧の水に
侵されている。また背後からは、もといた所へ引き返す
ように呼び掛ける誘惑の声が絶えることはない。
だがアンベードカル博士が指し示し、ブッダが招喚する
一本の“白い道”を、彼らは迷うことなく進んで行く。
佐々井秀嶺師と共に。

法城

法城
法城
法城
佐々井秀嶺師の仏教遺跡発掘について、ある人は、
「現代のシュリーマン」
と評した。最下層民衆に溶け込み、彼らの口碑伝承を
丹念に収集し、その裏に秘められた歴史の真実を読
み取り、直感と信念を頼りに自らスコップとツルハシを
持って山林へと分け入り、巨大な遺跡を掘りあてた。
(『必生 闘う仏教』137頁〜)
いわゆる「歴史」なるものが勝者の記した成功物語で
あるとすれば、敗者の残したいにしえの栄華の名残は
必ずや大地の下、あるいは水底に潜んでいる。
その呻吟を聞き取るのは、まさに菩薩の慈悲。他者の
苦悩に強く感応道交できる佐々井師ならでは偉業だ。

写真上は、龍樹法城遺跡。
「南天龍宮城は我が法城也 我が法城は汝が法城
汝が法城は我が法城」
(『同上』54頁)
現在もまだ周辺の発掘が続けられている大僧院跡。
祇園精舎遺跡に通じる建築様式(140頁)で、往時には
万を越す僧侶が修行していたと推測される。
写真中は、遺跡に隣接した湖。
一円には肥沃な湖沼地帯が広がり、かつてはそれらが
つながって海のごとき巨大な湖をなしていた。
その証拠に、内陸奥部にも関わらず貝の化石が頻繁に
出土し、また遺跡からは波をデザインした彫刻や、淡水
ワニを神格化した偶像も発掘されている。
写真下は、南天鉄塔遺跡。
鉢を伏せたようなドーム型の仏教遺跡は、インド各地に
点在するが、巨大な蓮(大白蓮華)をかたどった仏塔は
全インド中ここにしかない。周囲に花弁を模した階段が
設けられ、また側面には茎をデザインした装飾が施され
ている。ちなみに近隣の山は、鉄鉱石の産地だ。
「南天、鉄、塔、海。これらすべてのキー・ワードが、この
地で一つに結ばれるのです」(『同上』141頁)

破天

破天
破天
写真上はナグプール郊外マンセルにある文殊師利菩薩寺
境内に建てられた、故山際素男先生顕彰碑。
下は現場にて仕上げ作業を陣頭指揮する佐々井秀嶺師。
流麗な筆致の碑文は、山際先生の盟友にして元三一書房
編集:増田政巳氏。日本文と英文で刻まれている。
冒頭、佐々井師の存在を初めて祖国の同胞に知らしめた
三一書房刊『不可触民の道』から付記が引かれ、
「最も深い真実は、最も深い苦悩と、その苦悩との戦いを
通してしか生まれえないものであろう。インド仏教徒、不可
触民の人々は、その意味において最も人間的真実を語る
資格を持ち、語りうる人々ではないだろうか」
と高らかに宣言し、大乗仏教発祥の聖地に屹然と立つ。
(除幕式は写真家:山本宗補氏が勤めた)

山際先生は『~の道』の中で佐々井師との初対面を以下の
ように記録している。
「案内を乞うと朱の衣をまとった僧侶が奥から現れた。一瞬
〝異相〟をその人物に感じた。日本人だ。」
のちに佐々井師本人から当時のことを聞いたが、
「いや、あん時はもう、身なりが一番ひどくてねえ。髪も髭も
伸びてたから、汚らしく見えたんじゃないかなあ」
故先生が異相を感じたのはそのような容貌のことではなく、
全身から発せられる〝気〟ではなかったのか。
ちなみに『~の道』に収められた写真では髪も髭もきちんと
剃り上げられている。
山際先生52才、佐々井師45才。運命の出会いだった。

その後、先生はアンベードカル博士畢生の大著の完訳、
『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)
そして佐々井秀嶺師の半生を描いた評伝小説、
『破天』(同上)
を世に送り出した。
山際先生の御功績は、まさに曇「天」を「破」る日輪である。

龍樹

龍樹
龍樹
本人が意識するしないに関わらず、強く心に焼きついていた
イメージが何かのきっかけで表層に立ち現れることがある。
真言宗出身の佐々井秀嶺師にとって、龍樹(Nagarjuna。龍
猛とも)の名は、修行時代から圧倒的な存在感で胸の奥に
焼き付いていたのだろう。
少年期、ケガがもとで病に臥し、蛇の心臓を飲むことで回復
した(『必生』17、99頁)体験から、佐々井師の内面において
蛇すなわちナーガを冠した龍樹の名は、みずからの生命の
根源に関わるものでもあっただろう。
そしてまた、ケガと大病によって味わった“痛み”が、佐々井
師の菩薩道の根源にあるのではないか。
なぜなら、痛みを知らない者に慈悲心は生じえないからだ。

佐々井師の龍樹ヴィジョン体験は、長い間「夢」という表現で
伝えられてきた。
だが、仏教では古来から「夢告」と呼ばれる宗教体験が認め
られており、例えば法然は、心の師と仰ぐ中国唐代の善導が
半身を金色に輝かせながら出現するヴィジョンを見ているし、
また親鸞は、六角堂で如意輪観音からお告げを受けている。
今日的に云うなら、本人の希求が結像した脳内現象、という
ことになるか。(『必生』53頁)

  我は龍樹也 汝速やかに南天龍宮城へ行け
  南天龍宮城は我が法城也
  我が法城は汝が法城 汝が法城は我が法城
  汝速やかに南天龍宮城へ行け
  南天鉄塔 亦そこにあらむ乎  (『必生』54頁)

このわずか数行の言葉におのれのすべてを賭けて四十数年
インドの最下層民衆と苦楽を共にしてきた佐々井師。
それは、夢でもなんでもない。痛みを伴った、真実なのだ。

※写真は龍樹菩薩大寺本堂前に建てられた龍樹像

至誠

至誠
至誠
至誠
今まで何度も書いてきたが、佐々井秀嶺師は義理人情
の漢である。そして常に八方への気配りを欠かさない。
一見、豪放磊落に見えるのは、気遣いを相手に気付か
せないためである。至誠のひと、なのだ。
そのため、時として佐々井師は苦渋の選択をしている。
あちらを立てればこちらが立たずと、板挟みの中で唇を
噛んで決断している。
拙自身、たびたび佐々井師に唇を噛ませてきた張本人
なのだから、偉そうなことを云えた立場ではない。

佐々井秀嶺師の至誠が具現化したのが龍樹菩薩大寺。
篤志家の多年に渡る支援に報い、建立された。
(『必生』147頁、175頁)
常に粗衣粗食を貫く佐々井師は、その篤志家の支援金
を御自身のためには遣わず、龍樹(Nagarjuna)ゆかりの
地に巨大な顕彰寺院を開山したのである。
本尊は阿弥陀如来座像。印相は、鎌倉大仏と同じ弥陀
定印。釈尊とアンベードカル博士の三尊仏形式。手前に
黒く光るのはナーガールジュナ像だ。

粗食。拙やおとうと弟子は、実際インドで佐々井師と同じ
物をいただいているが、本当に粗末である。
炊いたインド米を盆にぶちまけ、上から白湯をぶっかけ、
日本製の生味噌や海苔、漬物でもあれば上等で、ご飯と
混ぜて喉へ押し込む。一汁も一菜もないことさえある。

そんな日常があったればこその、至誠なのだと思う。

初心

初心
初心
今回の南天龍宮(ナグプール)帰城は、結果的にだが
拙自身にとって原点回帰の道程となった。
佐々井秀嶺師と出会って以来、『必生 闘う仏教』刊行
へ到るまでの年月に、一区切り付けたかたちとなった。
・・・虐げられたインド民衆の、笑顔。
すべてはそこから始まった。そして、それがすべてだ。

「口先だけの説法で、どんなにありがたそうな言葉を並
べ立てても、民衆の心を本当に動かすことはできない。
まさしく理屈抜きの、態度で示すしかないのだ」
(『必生』71頁)
これを、単純、と嘲る者もいよう。しかし、物事の本質は
常に素朴で純一な動機と行動にこそ宿るものだ。
祖父母に連れられて朝の勤行に参拝した幼子の、黒く
深い瞳の色は、まさしく仏眼である。
参拝を終え寺の門前に腰を下ろし談笑するインド民衆
の笑顔は、真っ直ぐな一本の茎の先に咲いた「於泥華
(泥中に咲く花。大白蓮華)」である。

「ワンダミー、バンテー・ジー」
(祝福を、上人様)
その声に応え佐々井師は、時にパーリ勤行、また時に
南無妙法蓮華経の唱題で祝福を授ける。
これが、佐々井師の出発点であり、現在まで変わらず
続けられている日常の風景なのだ。

拙が惹かれた佐々井師の姿は、今も変わらない。

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