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2011年10月

天日地花

天日地花
天日地花
『陰徳(いんとく)』。陰にいて目立たぬ立場を貫きながら
他者に奉仕すること。表舞台の華々しい陽徳とは、逆。
この言葉を、知識としては知っていたが進んで実践して
いる人にはなかなか出会えなかった。無論、自分自身
も含めて、である。
だが、インドの佐々井秀嶺師の活動を長年に渡り日本
から支え続けて来られた方、あるいは、みずからの職を
投げ打ち現地へ赴いて佐々井師の下働きをされた方と
お会いする縁に恵まれ、陰の温かさを知った。

陽は、誘蛾灯のごとく人を引き寄せる。おのれの名聞・
利養そして勝他のために、様々な目論見の毒を含んだ
者たちが群がって来る。そのような輩は、きっかけさえ
あれば容易に態度を一変させる。
「そんなもんだよ、仕方ないだろ。はっはっは!」
佐々井師はいつも笑い飛ばすが、その横顔は寂しさに
翳る。愛別離苦。祖国を遠く離れ四十年以上も異郷で
暮らしてきた老僧は、その痛みの中で生きてきた。

陰は、陽のカゲではない。
花に譬えて云うならば、サロンに飾られた花は、それが
どんなに絢爛豪華であっても、所詮は、切り花。
大地に根を張った名もない花とは、咲く世界が違う。
これを「ハレ」と「ケ」の例で云うなら、晴れの舞台は気の
日常に支えられてこそ成り立つ。
つまり、陽徳で一旗揚げようという輩は、根無しの花だ。

佐々井秀嶺師は「天日」の号も持つ。
(『必生 闘う仏教』48頁)
まさに中天に燃ゆる日輪の如き佐々井師には相応しい
名だが、云うまでもなくその陽光は不断の陰徳によって
輝いているのである。
あえて抽象的な物言いをするならば、始原の混沌、陰陽
未分化の〝生命力そのもの〟、それが佐々井師だ。
凡余が陽の部分だけをかすめ盗ろうとしても、かなうもの
ではない。

恒河沙数の(ガンジス河の砂の如く数えきれない)陰徳。
さらに、それを支える方々の陰徳・・・。
日は天に。花は地に。

仏子の歌

仏子の歌
仏子の歌
仏子の歌
先週末、関東某所にて、A.I.M.Japan(アンベードカル・
インターナショナル・ミッション日本支部)の主催による
『第55回アンベードカル博士改宗記念祭』が開かれた。
正しくは「Dhamma Chakra Pravartin Din(転法輪祭)」
と称するこの式典は、1956年10月14日、インド中央部
ナグプールにおいて、インド国憲法起草者にして差別
解放の大先達たるアンベードカル博士が、仏教改宗と
インド仏教の復興を宣言した記念祭である。
「私はヒンドゥー教徒としてこの世に生を受けはしたが
断じてヒンドゥー教徒のままでは死なない」
彼はそう言った。なぜなら、神々の名のもとに人間が
階級分けされ、更にその最下層にはヒトとして認めら
れない身分を置いた宗教など、信じるに値しないから
である。そして彼は、その言葉通りにした。

アンベードカル博士が灯した仏法の火は、彼の急逝後
八年、飄然と現れたひとりの日本人によって、再び赤く
激しく、いっそう高らかに掲げられることとなる。
佐々井秀嶺師の登場だ。現在、日本で生活するインド
仏教徒の殆どが佐々井師の御縁で来日した人々。
いわば、師の息子や娘のような〝仏子〟たちである。
なかには少年時代、バイクの後ろに佐々井師を乗せて
辻説法のお伴をしたという、筋金入りもいる。
「バンテー・ジー(佐々井上人)、昔は怖かったですよお。
最近はいつもニコニコしてますけどね」
・・・闘う仏教。不動明王と地蔵菩薩は一体なのだ。

今年の記念祭では、東日本大震災で亡くなられた方々
への追悼も行なわれた。
位牌、という習慣を持たない彼らではあったが、漢字が
読める者もいたので、進んで礼拝してくれた。
「ブッダの教えはマイトリー(慈)。friendshipです。それを
名前にした菩薩が、マイトレーヤー。日本では弥勒菩薩
と呼びますね。未来に現れる救い主だと。つまり人間の
未来は、friendshipで変わると思います」
いかにも〝インド人らしい〟言い回しだが、彼らが語る
仏法は、理屈でなく、深い痛みの共感に基づいている。
ブッダはそれを、カルナー(悲)と説いた。

式典の最後、彼らは大震災物故者のために仏教聖歌を
奉唱してくれた。(まったくのサプライズだった!)
「Buddham Saranam Gacchaami」
仏子たちの歌声は、ところどころ調子ッ外れであったが、
慈悲に溢れ、暖かであった。

日本人として

日本人として
日本人として
日本人として
いまも東北の被災地では、幾多の艱難に立ち向かい、
復興への努力が続けられている。
天災だけではない、福島第一原発事故による放射能
漏洩、そして事実を隠蔽しようと画策する権力者らが
もたらす人災。国民は、それとも闘っている。
インド仏教指導者:佐々井秀嶺師も「日本の民衆の子」
(故山際素男先生曰)である。
「おお首相よ、ここに現れ、仏陀の嗤いに答えてみよ。
私の生まれは日本である。そして、原爆体験をした唯
一の民族、日本人の怒りが燃えたぎっている」
(山際先生著『破天』光文社新書)
1998年、インド政府が地下核実験を強行した際、首都
デリーの国会議事堂前に、怒号が轟いた。
怒りを鎮めよ、などという抹香臭いことはどうでもいい。
実際には〝元〟日本人であるが、庶民感覚として思う
ところを爆発させる。佐々井師はそういう人だ。

3月11日、東日本大震災発生。
二万数千人にも上る無辜の生命が失われた。
その報道をインドのテレビで逐一追っていた佐々井師
と連絡が付いたのは14日。無論、日本の電話回線が
ダウンしていたからだ。
「こちらでは毎日、仏教徒がお祈りをしてくれている。
そのことを皆さんに伝えてくれ」
4月。かねてからアンベードカル生誕祭に出席を予定
していた拙は、大震災物故者諸霊の初月命日をぜひ
お釈迦さまの国でお勤めしたい、と考え、連日余震が
続く中、また私事ながら、寝たきりの老親をひとり日本
に残して渡印した。佐々井師は物故者諸霊の位牌に
手を合わせ、読経してくださった(写真上)。
6月。佐々井師緊急来日の報せ。
写真家:山本宗補氏のひとかたならぬ御尽力によって、
岩手・宮城・福島の被災地を慰霊行脚(写真中)。
そして、8月。インド中央部はナグプール市近郊にある
マンセル遺跡に慰霊碑が建てられた。
理屈ではなく〝日本の民衆の子〟としてそうせずには
いられなかった、佐々井師の思い(写真下)。

被災地の惨憺たる状況を目の当たりにし、人間として、
日本人として、佐々井秀嶺師は嗚咽していた。

南天の白蓮(8)

南天の白蓮(8)
すべての行事を終え、ラック(RACK)一行をお見送り
した明くる日、改めて東日本大震災物故者慰霊碑を
参拝した。
除幕開眼式の当日は、人でごった返し、式を滞りなく
進行させることに神経を奪われていたため、今度は
一日本人として、大震災と津波で亡くなられた方々の
御前にお参りさせていただいた。
慰霊碑が建てられた場所は、ナグプール郊外にある
マンセル遺跡の一角。沃野千里の豊穣な大地だ。
仏教神話では、大乗創始者:龍樹菩薩(Nagarjuna)は
南天竺にある鉄塔から大乗経典を発見したといわれ、
その鉄塔は、長らく架空の存在と見られてきた。
だが佐々井秀嶺師は、漢訳仏典の文字から想像され
るイメージではなく、サンスクリット語の表現や現地の
言語習慣など、日々の具体的な生活実感に基づいて
〝南天・鉄・塔〟のキーワードを解明したのである。
(集英社新書『必生 闘う仏教』137頁)

被差別民衆と深く交わり、彼らの呻吟に真正面から耳
を傾ける中、かつて「人間平等」の教えをこの地で説き
示した偉大な先駆者の残光に接した。
そして民衆のあいだに細々と伝えられる口碑を丹念に
拾い集め、直感と信念をたよりに、みずからスコップと
ツルハシを振るい、「大乗仏教発祥之地」を捜し当てた
のである。佐々井師は、既存の権威や学説がまだ追い
ついていない処へ、地位や知識とは無縁な民草と共に
辿り着いたのだ。

南天鉄塔は巨大な蓮の花を模したストゥーパ(仏塔)。
周囲には花弁を表す階段があしらわれ、壁面には茎を
意匠化したデザインが施されている。
このような建築様式は、全インド中ここにしかない。
「大白蓮華(だいびゃくれんげ)」
蓮は泥の中に根を張りながらも純白の花を咲かせる。
すなわち泥は煩悩、花は悟り。これが大乗仏教だ。

みほとけの蓮の台(うてな)に見守られるかの如くして、
東日本大震災物故者慰霊碑は建っている。

(※写真後方、丘の上に南天鉄塔遺跡)

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