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2011年12月

年賀欠礼

年賀欠礼
12月半ばの某日、わが老親が往生の素懐を遂げた。
二年間に及ぶ介護問題当事者としての経験は、多くの
ことを学ばせてくれた。
とはいえそれは終止符が打たれた今だからこそ言える
のであって、思い起こせば約一年半が経過した今年の
晩夏頃にはストレスがピークに達していた。
一秒でも長く生きてほしい、という“白い心”と、一秒でも
長く生きられたらこちらが辛い、という“黒い心”。
気取って言うなら、悪魔との対話の日々、であった。
境遇を同じくする友人に、こんなセリフを口走ったことが
ある。彼は、子育ての真っ最中でもあった。
「親の介護ってさ、こうやって自分も育ててもらったんだ
と思えば、仕方ないよね」
いかにも坊主が語りそうな美談モドキ。彼は答えた。
「違うよ。子育てには自立させるってゴールがある。でも
介護のゴールは、回復しなければ悲しいだけだ」
拙はおのれの欺瞞を羞じた。

文章を書く楽しさも音楽表現の喜びも、すべてはこの親
から教えられた。
小学校のとき県の作文コンクールに拙の詩が入選した。
親はその関連記事が掲載された地方紙を仏壇に供えて
先祖へ報告した。考えてみれば、そういった子供時代の
素朴な信仰生活が、仏との出会いでもあったわけだ。
近所の菓子屋で万引きしたことがバレ、泣きながら叱る
親は、仏壇の線香で、拙の“親指”に灸を据えた。
それが無上の<宗教教育>だったことに気付いたのは
ずっと後、坊主になってからだ。
中学に入り、当時流行していたフォークに夢中になって、
廉価のギター(フレットを押されると指がはさまるほどの
弦高)を買ってくれとせがんだ。
その頃は父が失業中であったが、苦しい家計の中から
わがままな願いを叶えてくれた。
弾き語りの練習でがなり立て、ご近所に迷惑をかけては
親が詫びて回った。そのお蔭で、強靱な声帯が出来た。
それが坊主になってから声明(しょうみょう)に生かされる
ことになろうとは、じつに不思議な巡り合わせである。

佐々井秀嶺師著『必生 闘う仏教』(集英社新書)は親が
まだ文字を読める状態の時に刊行できた。
今後、再開した音楽活動は、仏前に供えることとしたい。

以上 年賀欠礼の御挨拶に代えて。

平成廿三年

平成廿三年
今年一年を振り返ってみる時期になった、という書き
出しが、あちこちに溢れ返る時期になった。
だが今年ほど重く、長く、しかも険しい年は、戦後日本
の歩みの中で、かつてなかった。
3月11日、東日本大震災の直前までマスコミが騒いで
いたのが大学入試のカンニングだったことを思えば、
あまりにも大きな変化である。
そう。震災は進学卒業の季節だった。6月にインドから
被災地慰霊行脚のため緊急帰国した佐々井秀嶺師と
東北地方を訪れた際、飯舘村にも寄らせて頂いた。
緑豊かな山間に近代的な校舎が見えた。窓には在学
児童が製作したであろう、桜の花を模して色紙を切り
抜いた中に祝いの言葉を記したメッセージが、たくさん
貼られていた。
そこでは時間が、3月で停止していた。言うまでもなく、
放射能により避難を余儀なくされたからだ。
「原発をなくすことが本当の供養」
佐々井師は言った。それも福島原発25㎞圏ぎりぎりの
地点まで赴いて、震災物故者諸霊に読経を捧げた後、
向かい風に土埃が舞う中、天地に轟く大音声で。

さて、佐々井師来日中の6月11日、拙はいったん東京
へと戻り、かねてから予定していたライヴに出演した。
ギタリストでタイポグラフィー作家のバンドウジロウ氏と
組んでいる仏教音楽ユニットの初公演であった。
オープニングMCで、
「今日は、震災で亡くなられた方々の三回目の月命日、
そして間もなく、百箇日忌という法事があります。声明
(しょうみょう)はお経ですから、皆さんも一緒に御冥福
を念じてください」
とお願いした。終了後、観客のおひとりが仰った。
「私の親戚も津波で亡くなったんです」

いま、バンドウ氏とは、経典を現代語に訳した曲作りを
進めている。
旧来の声明のままでは意味が伝わらないし、かと言って
説教調や抹香臭い歌詞では、どこかの宗教団体みたい
になってしまうので、難しいところではある。

今年一年を振り返り、浮かんだ言葉は、これだった。
『使命感』
(・・・カッコつけ過ぎかも知れないが)

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