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2012年1月

『白い道』

Shiroimichi_4
懐かしい映画だ。俳優の三國連太郎氏が原作・脚本・
監督の三役を勤めた、若き日の親鸞を描く作品。
開祖伝モノにありがちな神格化を徹底的に排し、常に
汚れた法衣姿の善信(親鸞)は、迷いに迷い、揺らぎ
ながらも最下層民衆と共に生きていく。
善信夫妻の夜の営みをイメージさせるカットや長女が
初潮を迎えるシーン等、あくまで「人間の物語」として
活写されている。

さて今回、改めて本作を紹介した理由は、この映画が
あまりにも『3.11』以後の日本社会を予見していたかの
ように思えるからだ。
権勢におもね、金と保身ばかりを考える者らによって
弱者が軽んじられ、いのちまで奪われる。
映画冒頭、ツツガムシ駆除の名目で善信とその仲間
が暮らす村は焼き払われ、辛うじて生き延びた人々と
共に、善信夫婦は未知の土地へ移住する。
だが迷信と因習に支配されたムラ社会の中で、善信
夫婦の幼子も病死。次々と消えてゆくいのち。
老婆と二人暮らしの鉱山労働者の青年は、世間から
“破戒僧”と叩かれる善信に心を寄せるが、その彼も
爆発事故で死ぬ。善信は青年の遺体を背負い、鉱山
の主に対決を挑む。
やがて、善信の影響力に目をつけた土地の権力者が
懐柔策を持ち掛けるが、当然、無視。
しかし、己の信念を貫こうとする善信と妻のあいだに
亀裂が生じ始める。善信は子供の将来を考え京都の
知人に預けようとするが、妻は反対。
「この子と別れては!」
泣きながらわが子を抱きしめる妻に、善信は、
「この子が必ず憂き目にあう」
と、引き離す。その結果、妻も善信のもとを去る。
そして…。

あとはレンタル等で実際にご鑑賞いただくこととして、
どうだろう、ツツガムシ病を放射線被害、鉱山爆発を
原発事故に置き換え、また避難移住者が抱える苦悩
という面から、この映画を見直すことは、思い込みが
過ぎるだろうか?

最初の村が焼き討ちに遭うシーンで、善信は吠える。
「よせー!人殺しは、よせー!」
今この台詞こそが、もっとも叫ばれるべき時だと思う。

軍荼利


上の写真は東寺蔵『軍荼利明王像』。
ヨーガ思想に説く、人間の尾てい骨あたりにトグロを
巻く龍蛇体のエネルギー:クンダリニーを尊格化した
ものだ。梵語で「螺旋状の」を意味する“kundalin”の
女性形であり、根源的な生命力のイメージといえる。
それは本質的に善でも悪でもない。長い年月を掛け
修行によって昇華させれば、悟りのちからとなる。
だが、いわゆる煩悩と同じものであるため、すぐれた
指導者のもとで、正しい行を積まねばならない。
すなわち、みだりに手を出してはいけないエネルギー
なのである。

或る現代アートの表現者が今年の干支「龍」をテーマ
にした展覧会で、核エネルギーを龍にたとえた彫刻を
発表していた。拙はその炯眼に感服した。
いにしえの人々は天地自然の猛威、人智を超越した
御し難いちからを指して、龍と呼んだのだ。
現代でいえば、まさに核エネルギーがそれである。
クリダリニーに譬えるなら、知識に奢った人間が勝手
な自己流でいじくった龍蛇が、核なのだ。
原発事故以前に喧伝されていた「オール電化」とは、
いうなればオール煩悩化の別名に過ぎなかった。
その結果、核龍は牙を剥いた。

ひとには「学び」のちからがある。
古代人は経験知から利用すべきものと手出しすべき
でない存在を分けた。
それを迷信と笑う者もいよう。確かに、権威と因習に
根差した迷信は、排さねば救われない。
だが本能的直感が「あれはダメ!」と叫ぶ時、多くの
場合、当たっているのではないか。命を危険にさらす
存在など理屈抜きにダメ、なのだ。
どんな理屈が言えるのも生きているからこそであり、
とにかく、自他共に生きる・生かすことが第一である。
核龍から手を引け。そして今後、手を出すな。
それがいま学ばなければならないことの全てであり、
本能の叫びであるはずだ。

「仏陀は平和の使徒である。まず原子力発電所を止
めなければならない。地下に眠った多くの人たちに対
する本当の回向は、政府が原発を廃止すること」
昨年の六月、被災地慰霊行脚のために緊急帰国した
佐々井秀嶺師は、福島の地で大喝した。
師のインド名=アーリア・ナーガールジュナ。
ナーガは「龍」である。

「龍」2012

東京浅草橋のギャラリーMAKII MASARU FINE ATRTSに
於いて、現代アートの表現者らがグループ展覧会を開く。
今年の干支にちなみ、「龍」をテーマにした作品群だ。**********************************************
 
マキイスタッフセレクション Vol.5
 「龍」2012

   1月13日(金)~24日(火)会期中無休
   11;00~19;00
   東京都台東区浅草橋1-7-7
   
http://www.makiimasaru.com

 出展者のひとり バンドウジロウ氏のサイト
  
http://geppei.com/05_bando/jb_index.html
***********************************************
龍。
それは、古代の人々が、自然の猛威や不可知な存在を
実在の生物からイメージを膨らませて神話化したもの。
多くの場合、それが蛇の姿に似るのは、太古の人々が
蛇の脱皮を「蘇生」と考え(全身を一度に脱ぎ変える為)、
そこに不死再生の霊力を思い描いたから、といわれる。
ギリシャ神話の医学の神が、手にした杖に蛇を巻き付け
ているのもそのためだ。
世界各地の古代信仰を「龍蛇崇拝」のカテゴリーで括る
ことも可能だ。生と死がごく身近にあった古代の人々に
とり、龍蛇こそはいかなる教義や福音よりも畏敬の対象
だったのである。


ゆえに龍蛇はまた『零落せる神』『まつろわぬ民』の象徴
でもある。
東西の神話、つまり勝利者の歴史で「退治される悪役」
といえば龍、と相場が決まっている。
滅ぼされた先住民、被征服民の信仰した「邪神」を龍で
表すことは多い。日本神話でいえば国津神(くにつかみ)
大国主命の別名はオオナムチ(大穴持)であり、穴蔵に
巣喰う蛇のイメージだ。
一方、インドに目を転じると、ブッダ伝において修行中の
釈迦を豪雨から庇ったのは龍であり、また大乗経典には
護法善神として登場する。それは仏教がゴータマ・ブッダ
の時代から虐げられし人々の解放、反カーストを掲げて
いたことの証左にほかならない。
アーリア民族に侵略され、カースト制度を押し付けられ、
更にその下、人間として扱われない“不可触民”へと落と
された人々は、ナーガ(龍)族とも呼ばれた。
現代インドにおいて仏教復興の獅子吼が中南部の都市
ナグプール(龍宮城)から発せられていることは、単なる
偶然ではないのである。


「生命力という名の龍蛇」
(佐々井秀嶺師『必生 闘う仏教』集英社新書。100頁)
すなわち龍とは、原初の躍動、それ自体なのだ。

輝く時

輝く時
新年の幕開けはこのブログに似つかわしくない(笑)、
あでやかな花嫁の笑顔から始めよう。
上に紹介した書影は、ブライダル業界誌、
『HOTERES Wedding ホテレスウエディング』
(株式会社ウエディングジョブ。隔月刊)
ウエディングプランナー・サポートマガジンの今号。

www.wedding-job.com
60ページからの「WORLDWIDE WEDDING」コーナーに
“宗教によって異なるインドの婚礼スタイル”と題して、
拙が紹介役として登場させていただいている。
今回の記事では、特にインド北西部カシミール地方の
イスラム教徒の結婚式を取り上げた。掲載した写真は
すべて現地で撮影したものだ。

かの地を拙が訪れたのは『9.11』事件後、全世界的に
イスラム過激派によるテロが横行していた頃だった。
ここで、カシミールの近現代史を少々・・・。
大英帝国からインドが独立する際、宗教紛争によって
パキスタンとバングラデシュ(東パキスタン)の三国に
分離したのはご承知の通り。
これらインド文化の特徴ともいえる宗教共同体の問題
を、英国側はかなり大雑把に捉えていたきらいがあり、
カシミールについては住民のほとんどがイスラム教徒
であったにも関わらず、領主がヒンドゥーだったために
インド領と決めた。以来燻り続けてきた住民の不満が
『9.11』をきっかけに表面化。拙が訪れた当時は、街の
到る処に兵士が立ち、監視の目を光らせていた。
そんな中で、異国の異教徒たる拙を暖かく迎え入れて
くれたのが今回紹介した写真の婚礼一家。
伝統と信仰に則った婚儀を、あたかも親族同然に包み
隠さず、すべてを見せてくれたのだった。

祝いの宴は、生命からほとばしる「うた」。
唱える神の名こそ異なれど、人が生き、巡り合い、愛が
生まれ、そして結ばれる。その営みに、一体どれほどの
違いがあろうか。

式の導師(イマーム。イスラム僧)が帰り際に言った。
「神様に間違いはありませんよ。間違った信じ方をする
人間がいるだけです」

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