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2012年7月

佐々井師東北へ(6)

佐々井師東北へ(6)
佐々井師東北へ(6)
佐々井師東北へ(6)
<希望の牧場 ~ふくしま~>
『被ばく牛を生かす意味とは、被災・被ばく農家が
生きる意味なのではないか』

http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/
梅雨の切れ間の晴天のもと、緑萌える田園風景の
中に、佐々井秀嶺師は立った。
福島第一原発事故後、政府はこの一帯の牛達に
殺処分を下した。動くガレキ、という扱いで…。

この日、佐々井師はまず牛のために読経した。
それを終えると、まるでもう一人の自分に聞かせる
ように語り始めた。

「山育ちの私は、いつも牛と一緒だった。子供の頃、
近所の子がふざけて仔牛を苛めた時、それを見る
のも嫌で、喧嘩になったことがある。
インドに行ってから、いろいろと勉強させてもらって、
牛が古代社会では豊穣の象徴とされていたことや、
ヒンドゥー教ではシヴァ神のお使いとされていること
などを知った。今でもインド人は道端に牛がいれば、
敬って、そっと避けて通る。
私が50年近く差別解放のお手伝いをさせていただ
いてる仏教徒は、ヒンドゥー教では“不可触民”と呼
ばれた人々だが、その由来は、亡くなった牛を処理
するという禁忌に触れる仕事だったからとも云われ
ている。それだけ人間と牛の関係は深いということ
なのだろう。
去年の震災でたくさんの人が亡くなり、原発事故で
放射能汚染まで広まったと聞く。
命は皆等しく平等である。その理由は、どんな命も
必ず他の命のおかげで生きていられるからだ。
遥か昔から牛に助けられ、そのおとなしさと力強さ、
乳や肉のおかげで生きて来られた人間が、なんの
懺悔も感謝もなく、ただ殺せとは、なんたる非道。
いわんや原発事故という人間が撒いた不幸の種で
他の命を踏みにじるとは、天に唾する所業である。
忘恩は動物にも劣る、と知らんのか!」

今回もまた多くの教えを身を以て示してくださった
佐々井秀嶺師は、虐げられた民衆の待つインドへ
帰って行った。
「東北と南天、一如法界とならん」

【追記】
拙は先日『希望の牧場』代表:吉沢氏のお話を伺う
機会があった。氏の言葉、
「折れた心と心をつないで立ち上がるんです」
そこに、菩薩道を見た。

佐々井師東北へ(5)

佐々井師東北へ(5)
佐々井師東北へ(5)
佐々井師東北へ(5)
福島県南相馬市。今春警戒区域解除となったばかり
のその地に、佐々井秀嶺師は立った。
そこでは津波被害を受けた当時のまま、なにもかもが
止まっていた。ただ生い茂った雑草だけが、流れた時
の長さを示していた。
この一年余、中央政府の形ばかりのパフォーマンスに
置き去りにされ、東電の放逸無慙に裏切られ、或いは
また、一部の国民に見られるような、復興支援に口を
閉ざしながら「反対!」だけを叫ぶ声が、どれほど被災
地に生きる同胞の心を踏みつけて来たか。
全半壊家屋、横転した車、打ち上げられた漁船。
青草茂る陰に船が転がる光景など、本来ありえない。
南相馬に広がった荒涼たる世界こそ現代日本の内実
を激しく告発しているのではないだろうか。

のび放題のびた草が強風に煽られ、啾々たる呻きを
上げて揺れる中、仁王立ちした佐々井師は、天地に
轟く大音声で勤行を始めた。
まず或る方角へ向けて読経した後、別の方向に向き
直り、続けて四回、いわゆる四方礼(しほうらい)を修
された。広大な南相馬、人の祈りは一匹の蟻が象の
大群に挑むようなものかも知れない。
だが、一匹のあとには無数の蟻が続いて立ち上がる
ことを、佐々井師はインド民衆との50年近い交わりの
なかで知っている。
四方礼を終え、佐々井師は犠牲となった方々へ語り
掛けた。話はおのずと、危険きわまる原発を放置して
結果的に被害を増大させた権力への怒りに向く。
そして最後は、
「去年はここに入れませんでした。すみませんでした」
との、お詫びの言葉で結んだ。

じつはこの読経中、南相馬に地震があった。
拙や同行の法友らはすぐさま気付いて避難する体勢
をとったが、集中していた佐々井師はまるで気が付か
なかったらしい。
「そうか?アンタら何を慌ててるのかと思ってたよ」

【写真上】南相馬市、2012年6月現在の様子。
【中】位牌を胸に犠牲者へ思いを伝える佐々井師。
【下】義足の禅僧:道順和尚作「お疲れ地蔵」。人々を
お椀の湯船(済度の願船)でねぎらう地蔵尊。
道順師は昨年震災発生後、津波現場に自作の仏像を
献じて巡る行脚を続けている“現代の円空”。

佐々井師東北へ(4)

佐々井師東北へ(4)
佐々井師東北へ(4)
佐々井師東北へ(4)
宮城県亘理郡山元町、東保育所。
昨年3月11日、ここであまたの幼い命が津波の犠牲
となった。今回、佐々井秀嶺師は急きょ地元の方々
の請いを受けて、供養に訪れた。
保育所を押し包む、哀し過ぎる静寂。それが悲劇の
重さ、傷の深さを、言葉少なに、しかし何より凄絶に
訴えていた。
震災、津波、原発事故。その後、日本国民の一部に
起きた東北差別…。失われた幼い命にとってそれは
あまりにも残忍で、無慈悲な仕打ちであった。
真に子供の未来を考える者ならば、未来を奪われた
子供の悲しみにも寄り添えるはずではないのか。
保育所へ入ってすぐ、園庭に面した場所に、地元の
方々によって祭壇が設けられていた。

佐々井師はまず般若心経を読誦。
続いて、パーリ語『三帰五戒』と『三寶讃』。
このとき拙は唱和しながら、内心(なぜ日本の子供の
ためにインドの勤行をするのか?)と疑問に思った。
読経を終えると、佐々井師は目に見えない子供達に
語り始めた。
「私には見えます。お母さんやお婆ちゃんがお迎えに
来ても、ボール遊びに夢中だったりジャングルジムで
遊んでたりする、みんなの姿がね。みんなが笑ってる
姿が見えていますよ」
そして、深々と頭を下げ、お礼の言葉を繰り返した。
「お経を聞いてくれて、ありがとうございました」

供養のあと地元の方が言った。
「去年、ここに祭壇を置いてから、今日でちょうど一年
なんです」
やはり導かれていたのだ。
子供たち、ずっとバンテー・ジー(上人様)を待っていて
くれたんですね。そう拙が言うと、
「…ん」
佐々井師はただ頷くだけだった。何かをこらえている
ようにも見えた。

その時、先ほどの疑問が解けたように感じた。
幼い命の悲しみに寄り添う佐々井師は、子供たちの
手を引いて、お釈迦さまの国へ連れて行ってあげた
かったのではないか。
まさかインド仏教徒一億五千万人の指導者がそんな
感傷的な、と笑う向きもあるだろう。
だが、佐々井師(Bhadant Arya Nagarjun)は名もなき
民衆のひとりひとりと正面から向き合い、泣き笑いを
共にして生きて来たのである。

小さき仏のまします園に、小さな花が咲いていた。

【写真提供:小林三旅氏】

佐々井師東北へ(3)

佐々井師東北へ(3)
佐々井師東北へ(3)
佐々井師東北へ(3)
佐々井師東北へ(3)
去る6月27日午後14時より南三陸ホテル観洋にて、
 『被災者の皆様と佐々井秀嶺さん
         ー ふれあいのつどい ー』

が開催されました。平日の昼間にも関わらず80名
に及ぶ方々の御参加を賜り、復興の為お忙しい中、
また、心身ともにお疲れのところ、貴重なお時間を
頂戴しましたこと、改めて深く感謝申し上げます。

準備段階では会場の選定に苦慮した。
一般的に考えれば、交通の便と人員収容に適した
寺院で開催するのが自然であろう。
しかし、そうなると異なる宗派間の得失、既存組織
への便宜供与など、悩ましい問題が絡んでくる。
そこで、震災後600人にのぼる避難者を受け入れた
ホテル観洋に場所をお借りすることにした。
事前告知と広報については、地元有志が積極的に
協力してくれた。
期せずして、宗派に依らず組織を頼まず、被災地の
方々がみずから佐々井師を招く、という理想的な形
となっていった。

『ふれあいのつどい』当日。
最初に追弔読経。
「南無東日本大震災物故者諸霊位」
佐々井師の太い声が響き渡る。
前半は講話。被災地復興の願いをインド仏教復興
運動の先駆者アンベードカル博士の生涯を引いて
語る。
後半は佐々井師が壇上から降りて被災者の皆様と
同じ目の高さに座り、個別の会話。
住み慣れた家を失い、愛する家族を亡くした人々の
赤裸々な呻吟。佐々井師はひとりひとりに言葉を尽
くして応えた。

この『つどい』を実現させたのは他でもない、震災で
亡くなられた方々の、仏の慈悲である。 
合掌。

佐々井師東北へ(2)

佐々井師東北へ(2)
佐々井師東北へ(2)
佐々井師東北へ(2)
「何か作業を手伝いたいんだ」
東北へ向かう直前、佐々井秀嶺師が言い出した。
「土を運んだりとか、石をどけたりとか。もともと私は
山育ちで、子供の頃から慣れてるから」
瓦礫処理を手伝いたい、と仰る。…困った。
「それにインドのラージギル(王舎城)では、世界平和
塔の基礎工事もやっていたからな」
50年近く前の話である。また、佐々井師に震災後の
日本の様々な状況を理解してもらうのは難しい。
なにしろ日本人が義理人情を重んじていた時代の、
浪花節のひとなのだ。佐々井師の大乗精神は、いう
なれば“大情”なのである。

さて、ここで紹介しておかねばならないことがある。
今回の佐々井師被災地訪問は、わが法友、少林寺
住職のひとかたならぬ尽力による。
彼は昨年大震災発生の翌四月時点から東北入りし、
菩薩行を実践、被災地の方々とこころの絆を深めて
来た。彼の功績によって佐々井師と被災者の皆様、
この互いに一面識もない両者が、結縁したのだ。

いや、仏縁は、人智を越えてあった。
津波により堂宇や庫裡など一切を流された南三陸
のお寺が彼の友人で、当初からそのプレハブ仮設
本堂を参拝させていただく予定ではいたが、折しも、
被災して分散した檀家さん達が、それぞれの仮設
住宅からお寺の草刈りのため再結集した時だった。
「これをトラックに積むんですね」
佐々井師は刈り取られた草の束を手際良く運んで
いく。その姿を見て、檀家の御主人が言った。
「あの和尚さん、ただもんでねえな」

ところで、写真の佐々井師が被っている帽子、実は
婦人用なのだ。
少林寺の住職夫人が、直射日光を心配し、とっさに
被せたものを、伊達に着こなしたわけである。

拙と少林寺。どちらからともなく呟いた。
「むかし、各宗を開いた偉い坊さんたちって、きっと
あんな感じだったんだろうなあ」

佐々井師東北へ(1)

佐々井師東北へ(1)
佐々井師東北へ(1)
佐々井師東北へ(1)
「震災を生きのびた人たちにお会いしたい」
佐々井秀嶺師は言った。
今年5月6日、仏誕祭(Buddha Jayanti。インド花祭。
お釈迦様の誕生を祝う灌仏会)の日、佐々井師が
拠点とする仏教復興運動の中心地ナグプール市
郊外に建てられた東日本大震災物故者慰霊碑の
前で、インド僧と地元仏教徒らによる追弔法要が
勤められたその数日後のこと。
「去年は、大変な時にお騒がせしてはならない、と
ひっそり御供養させてもらったが、生きのびた方々
には一人もお会いすることができなかった。本当に
申し訳ないことをしたよ」
昨年6月、佐々井師は東北被災三県の津波現場を
訪れ、亡くなられた方々のために読経行脚した。

http://cybertempledennoji.cocolog-nifty.com/teyanday/2011/06/post-1156.html
「だから今年は会って、お詫びしなきゃなあ」
どうか被災したみなさんを励ましてください、と拙が
一言さしはさむ
と、
「そんな、おこがましい、偉そうなことできるか!」
佐々井師はそういう人なのだ。


来日のおおまかな日程と滞在予定期間、インドへ
戻る日限のスケジュール調整。
7月初めには、首都デリーの最高裁で仏教の根本
聖地ブッダガヤー大菩提寺管理権(今に至るまで
ヒンドゥー教に横取りされている)に関する重要な
裁判が控えている。

バンテー・ジー(上人様)、ご無理なさらずに…。
77歳の高齢、しかも病と怪我で満身創痍のお体を
考慮すれば、いささか不安も生じる。
だが、やはり余計な一言であった。
「無理だと?被災地の方々は無理を忍んで生きて
おられるんだろ。行くといったら行く!」


【写真上】インド中央に建つ大震災慰霊碑。
【中】寺院で仏教徒の赤ちゃんをあやす佐々井師。
【下】宮城県南三陸到着後、まっすぐに保育所を
訪ねて被災した子供らと対面。おじいちゃんの顔。

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