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三度目の春

三度目の春
三度目の春
三度目の春
東日本大震災から二年、被災地に三度目の春が来た。
「始めなければ、何も始まらない」
震災後、多くの日本人が実感したことだと思う。
情けないことに人は時として“なにをすればいいのか
分からないから”と、始めることをやめてしまう。
下手な考え休むに似たり、である。どれほど御大層な
理屈で繕って見せても、所詮は居眠りと同じだ。
遅過ぎることはない。感じて、立ち上がるなら、それが
すべての始まりとなる。

自然に感じればいい。幼い頃、目の前にる人が悲しい
顔をしていたら、自分まで悲しくなったはずだ。
きっかけはそれでいい。
共感力と想像力が行動を生むことは云うまでもない。
仏典が説くところの「衆生病むゆえに、菩薩病む」とは
理念や哲学ではなく、行動を指した言葉なのだ。

たいしたことはできない、それが当たり前だ。
親鸞はこう云った。
「悲しみの淵にいる人たちに対して偉そうな説教など
するな。ましてや、その悲嘆をいさめたりするな。
人間はそれほど立派に出来ていない。おのれ自身を
省みれば分かるはずだろう。その奸詐な本性を埋め
隠して、善意の賢者でも気取るつもりか?
むしろ酒でも勧めて笑わせるほうが、人間らしい」
(『口伝鈔』第十七、十八章。取意)
被災地の方々と御縁をいただいて、改めてこの言葉の
凄みを知った。

自然を感じればいい。春はみずからが立ち上がること
を躊躇うか?野の花が春の訪れを疑うか?
そんな単純な、と嘲笑う声もあろう。
だが、どんなに複雑な事柄も、最初の糸口は一つ。
そして大事なことほど両手を添えて一つに集中せなば
指の間からこぼれ落ちてしまうものだ。
ゆえに合掌とは、両手で取り組む真摯さの象徴である。
また真摯とは、自然の別名でもあるだろう。

三度目の春。自然に、真摯に、何かを始めよう。

【写真上】津波ですべてが流された被災地に咲いた花。
【中】JR常磐線山下駅跡。今は草が線路を覆う。
【下】宮城県亘理郡山元町立東保育所園児犠牲者の
献花台に奉建された、寄せ書き塔婆。

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コメント

ごぶさたしています。お元気ですか!
花は繰り返し咲いて散っていきますね。
どんな状況でも繰り返し咲いてくれます。
自然は完璧です。我々だけが完璧ではありません。
「人間はそれほど立派に出来ていない。」
骨身に沁みる言葉です。
保育園の塔婆の画像に、泣きそうになりました。
幼子の御霊が不完全な我々を見つめていることでしょう。

こちらこそ、すっかりご無沙汰しております。
タゴールの詩に、
「私は世界中を見て回った。しかし、今やっと
知った。一輪の花に全宇宙が宿っていることを」
というのがあります。
まさに真実ですよね(^^)

そうですね。

仰るとうりですね。

私も、阪神大震災で多くの友人、知人が
犠牲になりました。

18年経とうが、心の悲しみは当時のままです。

これからも、自分たちがいる場所で
自分たちが無理なく出来る事を被災地の人々に
継続して行きたいです!

>りゅう様
手の届く範囲、そこをしっかり受け止めることを
ひとりひとりがすれば、網が繋がるように形を成して
いく…。そうありたいですよね。

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