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道 (DO)

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道 (DO)
7月7日、七夕の空を、佐々井秀嶺師はインドへ帰って行った。老齢と病躯を圧して来日してくださった佐々井師は、今年も体力の続く限り各地を巡錫し、説法獅子吼。無碍の心光照護をもって、祖国日本の善男善女に不壊の仏種を残して行った。
佐々井秀嶺師の仏道。それは、あえて誤解を畏れずに云うなら、芸道でもある。なぜなら大乗仏教が「大乗」たる所以は、相手あってのもの、だからだ。
佐々井師にとって五十年来の母語であるヒンディーは、仏典のパーリやサンスクリット語と流れを同じくする言語であり、ゆえに師の仏教理解は、翻訳を通さない現地の息吹きをもって体得されたものである。一例を挙げるなら「律」と漢訳された Vinaya の原義は、柔和や謙虚の意味。相手のことを思いやるがゆえに身を慎むこと。つまり、いわゆる戒律といった言葉からイメージされる厳めしい雰囲気とは、だいぶ趣が異なるのである。成る程、精舎道場に籠って持戒瞑想に打ち込むのも立派な修行ではあろう。しかし、道を清らかならしめんとする者は、むしろ汚れて当たり前。掃除係の作業服は汚れてこそ、ではないのか。
「独覚が菩薩よりも一段低いのは、独り善がりで相手のことを考えてないからだよ」
と、佐々井師は教えてくれた。
独覚(どっかく)とは、縁覚とも記される二乗地のひとつで、声聞(しょうもん)の次、菩薩の手前の境地とされる。確かに、相手を気遣う必要がなければ、或いは俗世間の雑音が無ければ、それなりに心境が深まることもあるだろう。だがそれは果たして、趣味の世界とどれほどの違いがあるのか。
佐々井師は日本にいた若い頃、浪曲師でもあった。下町の高座で学んだのは、ひとの心を掴み、揺さぶり、抱きしめることの難しさ、そして、その素晴らしさ。云うまでもなく日本の民間芸能は、仏教の伝導活動から発生したものであり、名もなき庶民の心の襞に寄り添った〈市井の菩薩たち〉の、
「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」
…たとえ身が苦しみと毒の中に止まろうとも精進を続け、忍耐のうちに命が終わっても私は後悔しない (大無量寿経)…という芸人魂、芸道精神が生み出したものだ。
仏道も芸道も、相手がいなければ成立しない。そのことを佐々井師は、浪花節の世界から学び、そしてまた、インドの最下層民衆と泣き笑いを共にしながら、御身の血肉とされたのである。

私「このところ日本では道(みち)、ドウですね、仏道、武士道、華道、茶道や、芸道のドウ。この《みち》の精神が軽んじられているように思うんですよ」
師「道が無かったら歩けないじゃないか」
(東京四谷真成院にて『殺活自在の流儀』より)

【写真上】「道」を行くひと:ササイ・ジー。
【中】冗談を交えた師のヒンディー語挨拶に笑いが溢れる在日インド仏教徒たち。
【下】浅草木馬亭にて約60年ぶりに浪花節を堪能した佐々井秀嶺師。(感激していました)。向かって右は、超人気の女流浪曲師・玉川奈々福師匠。左は文筆家の門賀美央子さん。

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