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2018年3月

ブッダ伝と『バーフバリ』

人間:提婆達多
人間:提婆達多

「デーヴァダッタ(提婆達多)の考え方のほうがインドの常識に近いんだよ」
ヒンドゥー教徒の友人が言った。
仏教にも詳しく、日本留学経験もある彼が云うには、ヴェーダを尊びカーストを重んじ戒律の厳格化と苦行を奨励したデーヴァダッタは伝統的なインドの価値観に準じており、人間平等と無常・苦・無我を説いたブッダのほうが、
「レジスタンス的だったんだよ」
じつは、数年前に交わしたこの会話が、拙著『反骨のブッダ』執筆動機の一つになっている。彼の示した視点に立てば、ブッダ滅後のインドで仏教がどんどん〈ブッダから遠くなっていった〉経緯の背景に横たわるものの輪郭が、朧気ながら見えてくるように思えたのだ。そして、仏教滅亡の歴史を再考することは、寺院の消滅すら語られる今日の日本を考える上でも重要なことだと思えた。
また、あまたの仏典において「豪も白法なき諸悪の首」とされる大悪人:提婆達多が、仏教の故国インドのヒンドゥー教においてはむしろ常識人とも見なされ得ること、そのデーヴァダッタ(調達とも音写)を日本の親鸞が、
「浄邦縁熟して調達、闍世をして逆害を興ぜしむ」(『教行信証』総序)
「提婆尊者」(『浄土和讃』)
と称えたことに、ありきたりな「教祖伝の悪役」で片付けてはならない人間デーヴァダッタ…例えば映画『沈黙 ~サイレンス 』のキチジローのような…を感じていた。
あえて口はばったい言い方をすれば、仏教徒各人がそれぞれに、
《みずからの内なるデーヴァダッタ》
を見失った時、仏教は滅亡に向かって滑り落ち始めるのではないだろうか。

閑話休題。
昨年末に日本で公開され、瞬く間に社会現象まで巻き起こした南インド映画『バーフバリ 王の凱旋』。私は、初日の初回上映を見に行って度肝を抜かれたと同時に、僭越ながら、我が意を得たり!と膝を打った。年明けに発売を控えていた『反骨のブッダ』で記したインド人の誇張癖、つまり〈盛り〉の文化が、徹底的に遺憾なく発揮されていたからだ。
しかも、テルグ語の台詞の随所にサンスクリット語が登場し、例えば「クシャットリア・ダルマ(武門の務め)」などは、ブッダ・ダルマ(仏法)との対比で考えると、仏教がインド社会にもたらしたその革新性が映像体験の実感を伴って理解できるはずだ。
さて、『バーフバリ』前後編にはインド神話の定番が様々なかたちで織り込まれている。『~王の凱旋』で物語の開始早々アマレンドラが暴れ象を鎮めるシーンなどは、ブッダの伝説にも同様のモチーフが使われている。ブッダ殺害を企てたデーヴァダッタは「酔象」をけしかけて踏み殺させようとするが、ブッダは暴れ象に偈を説いて鎮め、象は「聞き已りて 即ち前んで長跪し 如来の足を舐めぬ。その時 彼の象 即ち以て過を悔い 心自ら寧らず 即便に命終して三十三天に生ぜり」(増壱阿含経)。
しかし、凶暴化した象さんが偈(ポエム、歌)を聞いて後悔の念から即死する、とはいかにもインドの〈盛り〉文化!といえよう。大衆部初期の経典と見られる増壱阿含においてさえ、この過剰演出である。ゆえに『バーフバリ』が、大乗仏教を理解する上でも必見の作品であることは重ねて記す必要もなかろう。また、『バーフバリ』の悪役バラーラデーヴァ王は、
「あんな生き方しかできなかった提婆達多」
を知る上で、最良のヒントをくれるようにも、私は思えるのだ。

【写真上】日本公開『バーフバリ 王の凱旋』パンフレット裏表紙より
【下】拙著『反骨のブッダ』書影

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